第272話 蹴鞠

文字数 1,768文字

 いつまで京に滞在するのか、
丹羽長秀に問われた今川氏真(うじざね)は、
暫く当地に逗留し、
和歌、蹴鞠の宗家である飛鳥井雅教(まさのり)を訪ね、
歌の指導を受けるつもりだと話した。

 上様は政務がおありになって上洛されている、
なれど今川様は歌に蹴鞠で長滞在か、
徳川様の浜松城下に住んでおられるのなら、
武田との戦準備を手伝うぐらい為されば良いのに……

 烈臣、岡部元信の忠勇譚を知った仙千代だけに、
心中には複雑な思いが湧いた。

 「蹴鞠とは。かなりの間、
観ても、やってもおりませぬな、
そういえば」

 長秀の温厚な調子が聴こえた。

 「うむ、蹴鞠は我が父も、平手の(じい)も、
一世代前の飛鳥井、つまり父親の方に確か習っておる」

 信長に好奇心が見えた。

 「はっ、仰せの通りでございます。
四十年以上前、上様御生誕の一年前、
飛鳥井の先代が、
尾張勝幡城や平手殿の御屋敷にて歓待を受け、
上様の御尊父様や平手殿ら御家臣に、
蹴鞠をお教えしたと耳にしてございます」

 「平手がずいぶん好んで、
時に相手をさせられた」

 「私も上様が吉法師(きっぽうし)と名乗っておいでの(みぎり)には、
やはり平手様から御伝授していただいた覚えがございます」

 信長の小姓上がりである毛利良勝も会話に加わっている。

 「五郎左(ごろうざ)はどうであったかな」

 信長に水を向けられた長秀は答えに窮する真似をした。

 「五郎左、申せ」

 「はっ、顔面に一度しとどに鞠を受けてからは、
一度もやっておりませぬ」

 「何でもこなす五郎左にも苦手があったとは」

 「思い切り鞠を蹴り込んだのは、
何処のどちら様でしたか」

 「さあ、余は知らん。
何処ぞの傾奇者(かぶきもの)の仕業であろう。
余ではない」

 「目の前の御方によく似ておると、
私の記憶が申しております」

 信長の機嫌を観るに長けた、
長秀ならではの雰囲気作りが功を奏し、
一同に笑いが起こった。

 茶頭(さどう)を務める津田宗及(そうぎゅう)の声も入っている。
 この饗応の性質を酌み、茶頭とはいえ、
万事控え目に振る舞って、
武将達の間に入る姿勢は見せないでいた。
 表面は和やかにしていようとも、
言葉ひとつで、
すべてが反転してしまう緊張を伴う席だった。

 信長が快活な調子で氏真に言った。

 「近く、蹴鞠を見せよ」

 「上様の御高覧を賜るとなれば、
一級の手練れ(てだれ)の者が我先に名乗り出ましょう。
この後、飛鳥井家に立ち寄り、
上様の御所望を確と(しかと)伝え置きましてございます」

 茶事は滞りなく行われ、
皆、にこやかに館を後にしていった。

 蹴鞠を信長が観に行くのではなく、
氏真や宗家の飛鳥井父子はじめ、
参加する公卿達が信長の許にやって来て、
演じて見せるということで話は決まった。
 蹴鞠には相応の支度があると承知しているが、

 「日取りは後ほど調整することとして、
家中には観たい者が大勢居ります故、
当日は楽しみにこちらでお待ちしております。
御前試合ですからな、
皆様、大いに張り切られましょう」

 という長秀の一言で、
この相国寺を参加者が訪問することになった。

 ……信長に背中から抱きすくめられていると、
初春の夕の寒さを忘れた。

 「何を考えておる」

 信長の脚が仙千代の脚に絡まって温かい。

 「蹴鞠を拝見することが楽しみで胸が躍ります」

 「まだ見たことはなかったか」

 「はい。わくわく致します」

 「何を言っても愛い奴だ」

 脚が脚の間にぐいっと入れられる。

 「くすぐったい」

 仙千代が腰を引くと、

 「ならん、逃げては。
仙は、何処も彼処も(かしこも)
くすぐったがり過ぎるのじゃ」

 しかし、今日はこそばゆく、
笑いが収まらなかった。
 信長が腰を掴むので諦めて大人しくした。

 「先程の話、
大殿が蹴鞠を教わっておられたとなれば、
京との連絡を密にして野心を抱いておられたのだと感じ入り、
傳役(もり)の平手様が蹴鞠をお好きであられたと知れば、
教養豊かな御仁だと感心致しますのに、
今川様が蹴鞠の宗家を訪ねて云々と聞けば、
早う浜松に戻って槍の一本も磨けば宜しいのにと、
つい、考えてしまうのでございます」

 笑う信長の息が耳や頬に吹きかかる。

 仙千代はくるりと身体の向きを直され、
間近で見詰められた。

 「左様なことを言うから手離せなくなる」

 仙千代が怪訝そうにすると、

 「可笑しな奴だ」

 大真面目に話していた仙千代は口を尖らせた。

 「では、もっと可笑しな話を聞かせてやろう」

 信長は右肘を枕にしつつ、
左手で仙千代の腰辺りを撫でながら、
話し始めた。

 

 




 

 

 

 
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