第335話 離れていた一夜(4)

文字数 1,003文字

 今も、信長の仙千代を見る目は、
慈愛と思慕に満ちていて、
この場に他の誰も居ないのであれば、
引き寄せ、抱いて、
手離さないに決まっていた。
 仙千代の一晩の外泊さえ良い顔をしなかったと聞く信長が、
何事も首尾上々に運び、心から寛いでいる今夕、
久々に子作りから解放され、
仙千代と夜を共にすることは容易に想像がついた。

 とうの昔に終わった二人だ、
いや、何も無かった、
仙千代との間には何も無かった、
故に妬心を抱くなど、
馬鹿馬鹿しいにも程がある、
仙千代は光の道を進んでいる……
それを喜ばぬこの狭い心は見苦しい……

 父は、嫡男たる信忠には、
片付けなど一切させてはならぬと周囲に厳命していた。
近くの物も遠い家臣が取って寄越すというような幼年期を、
信忠は過ごし、孤独が最も親しい友だった。
 織田家を背負って立つのだと言われ続けて育ち、
弟達と親しくすれば主従の域を超えていると叱責を受け、
婚姻同盟により、
(つま)となった松姫に手紙(ふみ)を書けと命じられ、
いざ心が通い合うように思われた頃、
今度は敵方の姫に篭絡されていると文句を付けられ、
信忠は独尊そのものの父の下で枠に嵌められ、
色のない毎日に生きていた。

 仙千代との出会いが信忠に鮮やかな日々、
生きる喜びを教えた。
 何でもないひとつひとつが、
仙千代と居れば瑞々しく煌めいていた。
 仙千代の翳りのない真っ直ぐな眼差しが信忠を見上げる時、
信忠も訳も無く嬉しくなって見詰め返した。
 その時の幼い二人には邪魔だてするものなど何もなく、
ただ洋々と世界は広がり、すべてが輝いていた。

 ふと、(うつつ)に意識を戻すと、
仙千代が握り飯を口にする様に、
目を細めている信長だった。

 信忠は、

 「ではこれにて、御無礼仕ります」

 と(いとま)を告げた。

 仙千代が信忠を意識していることは、
どれほど仙千代が秘していても信忠には分かる。
 仙千代の目が信長を見、言葉が信長に告げられようと、
そこに信忠が居るのなら、
仙千代の心の声は信忠を呼んでいた。

 「おや、もう休まれるのか。
鉄砲の製造も順調に進み、
あとは大船気分で納入を待つばかり。
今宵は気分が良い。
用意させる故、若殿も御酒を召されれば如何か」

 信忠は気遣いを装った信長の方便だと知っていた。
 
 「有り難う存じます。
御厚意のみ、頂いておきます」

 信忠の立った気配で、
続きの間に控えていた三郎と勝丸が襖を開いた。

 この後しばらくの間、
信忠は珍しく機嫌の悪さを隠さなかった。






 

 

 

 

 

 

 

 


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