第297話 伊藤二介

文字数 1,254文字

 天正三年 卯月六日、信長は京を出発し、
南方へ出陣した。

 阿波の三好康長は一年前、やはり卯月に、
石山本願寺の顕如に呼応し、高屋城に入っていた。
 畿内で長らく勢力を振るった三好家は、
信長の足利義昭追放と共に滅亡したが、
宗家を支え、一族をまとめた重鎮、康長は、
未だ信長への反旗をおさめておらず、
三好康長討伐は顕如を追い詰めることでもあった。

 高屋への道程には、
本願寺が築いた萱振(かやふり)城があったが、
信長は無視して通り過ぎた。
 昨年の夏、
長島一向一揆制圧戦で本願寺に壊滅的な打撃を与えた信長にとり、
脆弱な萱振に時を割く意味はなく、
織田軍は高屋のみを標的に進んだ。

 八日、康長が立て籠もる高屋城を攻め、
城下を破壊した。
 三好方とは押しつ押されつ、合戦は数度に及んだ。

 この時、信長は、
駒ヶ谷山の山頂から戦況を観閲していた。

 家臣の伊藤与三右衛門の弟、伊藤二介は先駆けをして、
手傷を受けつつも怯む(ひるむ)ことなく重ねて攻め込み、
討死を果たした。

 「上様御高覧のもと、
あのような最期を遂げるとは、
まこと天晴れ、名誉の極みだ」

 「これほど晴れがましいことはない」

 「伊藤家末代までの誉れとならん……」

 誰からともなくそのような声が上がり、
居合わせた仙千代の眼は、
二介が三好側の雑兵に揉まれ、姿が消えた瞬間、
朱赤の采配を握った信長の手に一段と力が込められ、
ぶるっと震えた刹那を捉えた(とらえた)

 伊藤殿、見事な戦いぶり、
上様は確と(しかと)御覧じ(ごろうじ)遊ばされましたぞ、
上様の御心に、
伊藤殿の御活躍、刻まれましたぞ!……

 二介は、
仙千代より幾らか年嵩の槍が得意な若武者だった。
高名な家の出ではない者同士、
気兼ねなく何かにつけてよく語り合い、
仙千代は槍の稽古相手を務めたり、
または時折、素人芸だと言いつつも、
仙千代が茶の湯を指南したりした。

 「儂のような者でも茶席に招ばれる(よばれる)ことがあるかいの」

 二介は茶を飲みながら渋そうな顔をして言い、
仙千代は、

 「招ばれて(よばれて)困ることがないように、
今から学んでおくのです。
あっ!その菓子は私の分ですよ!」

 と、饅頭を盗られて、
二介の手をぴしゃっと叩いた。
 二介はよく日焼けした顔に白い歯を覗かせ、
かっかと笑い、饅頭をパクリと口へ放った。

 いつかは儂もそちらの世へ行く……
いつの日か……
その時は、
二介殿が浄土の水で点ててくださる茶をいただきまする……

 仙千代は潤む視界を振り切るように目をぎゅっと閉じ、
頭を激しく左右にした。

 合戦の様子をこのような地勢から眺める経験は、
仙千代は過去に無かった。
 いや、百戦錬磨の信長すら、
滅多にないことだった。

 信長の近侍である仙千代、竹丸、勝九郎といった小姓衆や、
信長の警護隊である馬廻りの秀政、
彦七郎、彦八郎等は山の上に居り、
佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、
(ばん)直政といった大将が率いる部隊は、
信長の眼下で激戦を繰り広げた。

 この日は誉田八幡(こんだはちまん)、道明寺河原へも進撃し、
次々と敵陣を征圧すると、
信長は駒ヶ谷山に陣を置き、
諸将に命じ、谷々の奥まで進撃し、焼き払い、
麦畑を薙ぎ払わせた。
 

 



 



 


 

 



 

 

 


 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み