第277話 那古野城(5)

文字数 878文字

 「大殿は城を盗った後のことまで考えて、
動いておられた。
歌を習ったことも作戦だったのでしょうか」

 「または、習っておられる内に、
氏豊と懇意になって、
ふとした小さな思い付きが成長したのか。
その成長に養分を与えたのは紛れもなく氏豊」

 仙千代が何とも曰く言い難い顔になっている。

 「どうした」

 「返す返すも織田家は今川家の怨敵……
氏豊殿が城を盗まれ、義元公が大敗し、
天下の名物も上様の手元に移り……」

 「氏豊が連歌に狂わず、
(まつりごと)に精を出しておれば、
義元の首が清須に晒されることはなかったのやも知れぬ」

 信長こそ、桶狭間に向かう朝、
敦盛を舞い、死出の旅を覚悟した。
無論、必ず生きて帰ってみせると決めていた。
しかし、我が身の胴と首が繋がっているのは、
今日が最後かと思う気持ちが皆無であったかといえば、
けしてそうではなかった。
それ程に強大な軍備、兵力を備えていたのが、
幕府の後継権を擁し、
広大な領地を有する今川義元だった。

 「夏山の 茂みふきわけ もる月は
風のひまこそ 曇りなりけれ」

 義元の辞世の句とされる一首を仙千代が諳んじた(そらんじた)
 
 夏山の茂みが風に揺れて月の明かりがこぼれ見えるが、
風が止むとまた月が茂みで雲隠れしてしまう……

 風が止まった一瞬に、
こぼれ差していた月光が茂みによって阻まれる様を、
「曇り」「雲隠れ」と表した義元は、
これを詠んだ時、
死ぬつもりはまったくなかったはずだった。
 しかし、桶狭間の戦いと同年の句であったことから、
義元の死を暗示したかのような一首だとして、
後に象徴的な歌になってしまった。

 「儂は歌など詠まぬ。
ただ雪月花を愛で、詠んだ歌が、
辞世の句だと好き勝手に言われてはかなわん。
真っ平だ」

 「義元公も苦笑いされておいででしょう。
御討ち死にの折、月など出ておりませんでした。
雨上がりの真昼でしたゆえ」

 「そういうことだ」

 信長の意を易々と酌みつつ、
率直な心情も織り交ぜる仙千代は語らって心地よかった。

 「仙と話しておると(きり)がない」

 引き寄せて胸に胸を合わせ、見詰めると、

 「夜影(やえい)をずいぶん使ってしまった」

 と、長く語り合った一時(ひととき)を伝えた。




 
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