第82話 犬追物

文字数 2,084文字

 ……重臣、諸将が集結している長島一向一揆討伐戦の軍議は、
紛糾というわけではないが、流石に長引いている。

 主の軍議が終わるのを控えの間で待つ顔触れも、
信長や信忠の小姓はもとより、
仙千代、竹丸の上席に当たる小姓頭や小指南はじめ、
仙千代より一才年長の柴田勝家の寵童、毛受(めんじゅ)庄助、
羽柴秀吉の期待の小姓、石田佐吉など、
他にも幾人か居た。
 福島市松、加藤夜叉若ら、
若輩の小姓達は庭を案内されている。

 今回の討伐戦は「根切」だと仙千代は信長から聞いていた。
評定にあれだけの顔触れが一堂に会しているということは、
根切が断行されることはもう確実だった。

 梅雨明け間近の曇天の日で、
雨が連日続いたせいか、蒸し暑かった。

 殿の根切の御意志はお変わりがない……
やはり、女子供も許しはしない戦となった……

 じんわりと嫌な汗が出た。
信長から直にではなくとも、主君を通してこの戦の質が、
比叡山焼き討ちに近いものであることを場の皆が、
起こり得る可能性の高い事態として承知していた。

 これが初陣となる者はとりわけ顔色が悪かった。
誰とても、女子供まで刃にかけることは気が進まない。
しかもそれが初陣であれば尚更だった。
そもそも仙千代や竹丸も、
白兵戦に巻き込まれたことはあっても、
敵と戦い、討ち取ったことは未だ無い。

 何とはなしに倦んだ空気になったところへ、
勝家の小姓、毛受庄助が、

 「儂は浮き立っておる。日ごろの研鑽の見せ所じゃ。
先だっても柴田の殿が主催の犬追物(いぬおうもの)に儂も参加が許され、
動く標的を射る良い稽古になった。
犬追物は流石、実戦の役に立つと、まこと、面白しゅうござった」

 犬追物は武家にとって大切な、実践を想定した武術訓練だった。
広い競技場の中に三十六騎。
馬に跨った複数人が入場し、
百五十頭の犬をそこに放して行われるという競技で、
使用する矢じりは、貫通しないような作りをしたものを用いてたが、
それでも犬が負傷したり、命を落とすことはあった。
 犬に命中した際の部位によって得点数が発生するという仕組みで、
これを検分するための審判も必要とされている。
 犬の調達については野犬などを買い取って集め、
無事であった犬は留め置かれ、次の試合で使われる。
負傷した犬は主に食用に回された。

 実際、戦ともなると、
馬上で敵兵を射抜くという行為は、
武士には欠かせない武術であったので、
その修練のためにも犬追物は存在した。
この技術を有する武士が欠ければ、
それだけ騎馬隊の練度も低くなって戦でも負けやすくなり、
ひいては領土を奪われてしまうことにも繋がる。
 戦いの絶えないこの時代、
犬追物は武術、馬術の向上に欠かせない大切な鍛錬だった。

 一方、犬追物は大掛かりな催しで、
経費も掛かることから、大身の武家でなければ開催は難しい。
岐阜では仙千代が来て以降、既に何度も犬追物があった。
ただ、騎乗して参加したことはまだ一度しかなく、
点数もまったく褒められたものではなかった。

 恋々と語る様子から想像するに、勝家の小姓、庄助は、
よほど良い成績を収めたに違いなかった。

 犬追物を経験したことのない小姓達は、
庄助の話を身を乗り出して聞いていた。

 勇猛果敢な柴田様の秘蔵の御小姓だけはある、
弓術、馬術に秀でた上に、声もよく通る……

 武士は声が大きい、よく通るということも、
大切なことだった。
 信長もそうで、声質は明快、
特に進軍や戦場では、大雨であろうと、強風であろうと、
よく響き、全軍に通り渡った。

 小姓達は庄助の犬追物談義に引き込まれ、
質疑応答となって、雰囲気が明るく変化した。
彦七郎、彦八郎、三郎、清三郎も会話に加わっている。

 信長の小姓頭や小指南は武勇に優れ、
犬追物の経験も豊富だったが、庄助に場を任せ、
にこやかに見守っていた。

 仙千代が見たところ、
仙千代、竹丸、そして秀吉の新米小姓、石田佐吉が、
ただ聴き入っていた。
かといって、心ここにあらずではなく、傾聴している。
仙千代は小姓達の顔と名、属す家を脳裏に記し、
それぞれの癖や反応を見ていて、それが興しろく、
おそらく竹丸や佐吉もそうだった。

 この三人が似た人種ということか……

 と仙千代は佐吉を見た。
武門の家の出ではない為、急な出世に家臣が足りず、
縁戚の福島市松、加藤夜叉若を小姓に呼んだ羽柴秀吉が、
鷹狩り先で頭脳明晰な佐吉を知り、
小姓として召し寄せ、この三人を今は、
常に侍らせているということだった。
 聞けば、秀吉は衆道相手は皆無であって、
小姓と閨房を共にすることは一切無いという。
 仙千代は佐吉が相当な切れ者なのだと認識した。

 回転の速さ、
機転の利き様では随一の羽柴様が惚れ込む賢さならば、
きっとこの後、あちらでもこちらでも、
名を聞き、顔を見ることになるだろう……

 と、佐吉の横顔を仙千代は見た。
鼻筋の通った、いくらか無表情に映る佐吉が、
庄助、三郎、彦七郎、彦八郎といった明朗な者達のやり取りに、
偶さか(たまさか)笑みをこぼすのが、仙千代は好ましかった。
 佐吉も、仙千代が時に声を上げて笑うと目線を合わせ、
笑い返した。
 この日、多くを語ることはなかったが、
佐吉とは気が合うと仙千代は思った。




 


 

 

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み