第328話 帰郷(16)

文字数 968文字

 万見本家の手水場(ちょうずば)は、
香りのある木が辺りに種々植えられていて、
この時期は木蓮や沈丁花が散り始めていた。
 (いにしえ)の物語を思わせる、
ゆかしい香りが鼻孔をくすぐる。

 便室に行けと彦七郎は言っておった……

 一見変ったことは何もない。

 彦七郎め、おかしな奴……

 ふと便槽を覗き、目を剥いた。

 ああっ!な、な、何だ!
何なのだ、これは!……

 やがて厠から仙千代の笑い声があがった。

 少々の後、仙千代が手を洗っていると、
声を聞きつけたものか、彦七郎がやって来た。

 「見たぞ!」

 「見られましたか!」

 「黄金の大蛇が居った!
あれほどの大蛇は初めてじゃった!」

 「黄金の大蛇!上手いこと仰る。
そう言われれば、そう見えぬこともないような」

 仙千代が目撃した物体は、
かつて見たこともない大きさで、
きっちり蜷局(とぐろ)を巻いて鎮座していた。

 「しかも脇には特大の注連縄(しめなわ)が一本、
御蛇様に奉納されておった!」

 「黄金の大蛇に、特大の注連縄ですか!」

 「たいした奴だ!源吾は実にたいした奴だ!」

 「単に大糞をしでかしただけではありませぬか」

 「あれだけの間にあれだけの糞をするなら、
それだけでたいした奴なのだ」

 彦七郎はまたも敵愾心か、不服そうな顏をして見せた。

 「こっちは驚いて、
出るものが引っ込んでしまいました」

 「情けない。
儂は蛇が嫌いだが、それでも感銘を受けたぞ」

 仙千代は手を拭きながら機嫌が良かった。

 「殿は出るものが出たのですか」

 「大蛇の玉座に、若君を乗せた。
が、注連縄までは無理じゃった」

 二人でけらけら笑った。

 やがて彦七郎がきっぱり答えた。

 「不肖、市江彦七郎盛友(もりとも)、注連縄奉納して参ります!」

 「頼んだぞ!」

 つい童心に帰り、
そんなやり取りをして彦七郎と別れると、
いつの間にかすぐ先に重勝が居た。

 四角な巨躯は壁のようでさえあるのに、
そういえば重勝は、何事であれ、
物静かといおうか、所作全般、音を立てない。
 威圧感も無く、ただ、どしっとしている。

 「驚くではないか。何だ」

 「御母堂様がいらしておいでです。
姉君様、甥御様、姪御様も揃っておいでです」

 「うむ、御苦労」

 重々しい口調と表情を装った仙千代は、
彦七郎との会話をすっかり聞かれていたかもしれないと思い、
少しばかりバツが悪かった。
 だが、内心を悟られぬよう、
あくまで威厳を保とうとした。
 

 

 

 

 



 
 


 
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