第226話 鷺山殿と日根野弘就(1)

文字数 1,369文字

 新春といっても、正月の雰囲気はほぼ消えて、
城に落ち着きが戻る頃、
まず、日根野弘就(ひねのひろなり)が嫡男 高吉(たかよし)を伴い、
信長、信忠に拝謁した。
 弘就は既に老境が近く、
高吉が信長より四、五才若い男盛りだった。

 日根野一族は、長島一向一揆で、
精神的指導者であった下間頼旦(しもつまらいたん)に従い、
信長と戦い、一揆軍が壊滅すると落ちのびて流浪した。

 日根野父子が信長への目通りが叶ったことは、
信長の正室、鷺山殿の意を反映していた。

 長島で余りに多くの親族、忠臣を喪った信長は、
よもや、ふたたび、
弘就に見える(まみえる)など頭の隅にも無かったようで、
仲介の者が、
弘就の謝罪と織田家への仕官話を持ち込んできた際は、
当初、にべも無かった。

 表、つまり(まつりごと)に関しては、
たとえ正室であろうとも口を出すことを、
鷺山殿は堅く慎んでいた。
 しかし弘就からの使者を信長が追い返したと知ると、
信長が新たに召し上げた名物を手に、
寛いでいるところへ姿を見せ、
弘就を家臣に加えるべきだと進言をした。
 
 信長が名品の織部焼を愛でているその場には、
信忠、堀秀政、仙千代、竹丸が居合わせていた。
 信忠の小姓達、鷺山殿の侍女達は、
別室に侍している。

 信長を取り巻く顔触れを確かめた鷺山殿は、
人払いをしなかった。
 信忠は当然として、
他の者達も信長に特別親い(ちかい)近習達ばかりだった。

 仙千代から見ると信長は、
弘就の件でやって来た鷺山殿を理解できないようで、
例の茫洋とした顔で取り繕っていた。
 信長が一度決めたことに異を唱え、
耳を傾けてもらえる女人は鷺山殿だけだった。

 「まあ、左様な顔をせぬでも。
何やら難しそうな。
それよりも、どうじゃ、この織部。
深い緑が染みる。まこと、良いものじゃ。
ささ、眼福と致せ」

 信長は茶器を仙千代に持たせ、
鷺山殿に渡すよう、促した。

 城へ上がったばかりの仙千代は、
ただ大切な物だという認識だけで名物を扱っていた。
 それら名器を出し入れするよう命じられれば、
破損せぬよう、神経を研ぎ澄まし、
丁重の上にも丁重に取り扱いはしたが、
後々知ったことでは、
名品の中には値の付けられない程の宝もあるというのに、
信長は気風なのか、
童と言っても過言ではなかった当時の仙千代に、
いちいち値を告げるような無粋はしなかった。
 仙千代は長じて振り返り、
幼かった自分に対する主の慈愛であったのだと、
今更ながら思いが至り
信長の気質をそこに見て敬慕の念が募った。

 君主夫妻の間に入って主から織部を渡された仙千代は、
鷺山殿に恭しく器を差し出した。

 鷺山殿は仙千代にいったん微笑みつつも、
直ぐに表情を戻し、

 「まあ、確かに御立派な。
まったく殿が仰せのとうり」

 と言うものの、一瞥し、受け取らず、

 「深い緑が染みまする。ほんに殿が仰せのとうり。
深い緑は、ああ、目に染みまする」

 と、棒台詞で続けた。

 信忠、秀政、仙千代、竹丸は笑いを嚙み殺した。
 
 仙千代は気を静めると、
注意深く器を桐箱に収めた。

 鷺山殿は黙し、
仙千代の所作に目を遣っている。

 流石の信長も少しばかり真顔になって、

 「ま、……ふむ、話を聞こうか。
聞かずにはおられまい、左様な顔をされてはな」

 鷺山殿は、

 「どのような顔なのです」

 「それはだな、それは、……だ」

 「それそれと、そればかり」

 「それはそれ、それなのだ」

 ここで再度、信忠と近習三人は顏を俯け(うつむけ)
笑いを隠した。




 

 



 

 






 


 
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