第349話 岡崎城(1)大賀弥四郎

文字数 1,358文字

 信長、信忠父子が、
池鯉鮒(ちりゅう)から共にした石川数正一行を従え、
矢作川を越えて岡崎に入ると、
支流である菅生川(すごうがわ)河畔に、
龍城と別称を持つ岡崎城があった。

 「水系に恵まれた立地ゆえ、
龍の城と呼ばれるのでしょうか」

 信忠の脇の三郎に、
少し後ろから勝丸の問う声がした。
 
 弥生の末、武田勝頼が、
信濃から三河足助(あすけ)に侵攻した時、
信長は在京中で、
信忠が威嚇の意を示す為、尾張衆と援軍に出た。

 その際に、岡崎城は、
龍頭山という半島状の緩やかな丘に築かれた砦が元となっていると、
信忠は耳にしていた。
 信忠に侍っていた三郎も、
その由緒は聞いていて、勝丸に、

 「龍の名が付いた地に、
城の整備を進められたのは浜松殿の先々代にあたる、
松平清康なる御方であるということだ。
幼い浜松殿が織田家から今川家へ居を移し、
往時は事実上、
今川家の城となっていた十五年前からすれば、
嫡孫である浜松殿の躍進ぶりを、
清康公は祝着なさっておいでであろう」

 と教えた。

 「それもこれも、
上様の御力の為せるところでございますね!」

 「思っても、それは口にせぬことだ。
しかもこの三河の地では決して」

 三郎に窘め(たしなめ)られると勝丸は、

 「はっ!口が過ぎました!」

 と、赤面した。

 弥生の時点では知る由もなかったが、
勝頼は岡崎城を、
謀略をもってして手に入れる作戦でいたものか、
正面切っての衝突は無く、
むしろ、隊を分けると一部を尾張へ進めた。
 その報を知り、
膠着状態にあった三河から信忠は西へ戻り、
桶狭間や鳴海、熱田まで、防備を厚くした。
 徳川援護の信忠軍を排す為、
勝頼の取った行動だと知れてはいたが、
三河で大きな動きが無いのなら、
それ以上、岐阜を不在にする理由はなく、
勝頼分隊の撤退を見届けた上、
来たる本決戦に備え、信忠は帰還した。

 勝頼の最終的な標的が何処にあるにせよ、
版図(はんと)を目下、
最大にしている武田が三河を侵したことで、
信長の意は既に決していた。
 
 「三方ヶ原で信玄が徳川を陽動し、
散々な憂き目に遭わせた同じ思いを、
此度は熨斗(のし)を付けて返す!
彼の地で露と消えた汎秀(ひろひで)、橋介、弥三郎らに、
武田諸将の首を献じる絶好の機会。
斯様な僥倖は冥途の汎秀らの為せる御業だ」

 若き信長に一命を捧げた傳役(もり) 平手政秀の孫である汎秀、
寵愛した小姓 長谷川橋介や加藤弥三郎ら、
(よしみ)の深い者達を失った三方ヶ原は、
常に信長の胸にあり、
「根切」の意志は固く、
次はこちらが武田を誘き寄せ(おびきよせ)
復讐を果たすのだという決意は明確で、
揺るぎなかった。

 懲りずに今回も内応の策で、
岡崎城を崩壊させる手筈であった勝頼は、
昨年も似た手口で、
謀反を起こさせようとして失敗していた。
 元は徳川家の中間であった奉公人の大賀弥四郎が、
算術の才と目端の利く性分で取り立てられると、
権勢を奮い、増長したことから、
悪評が浜松の家康の耳に入った。
 咎めた家康が弥四郎の家財を没収したところ、
恨みをもって、武田に内通するところとなった。
 見破った家康は、
妻子五人を弥四郎の目の前で磔にし、
浜松市中を引きまわした上、
岡崎で(のこぎり)の刑に処した。
 弥四郎は土に頭だけを出して埋められ、
通行人に竹の鋸で首を切られ、
七日後に絶命した。
 以前、
信長の命を狙った杉谷善住坊が処されたように、
鋸引きの刑は、
謀反に対して行われる最も重い刑罰だった。

 
 
 

 
 



 
 

 

 

 
 
 
 

 

 





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