第264話 氏真 来訪(3)

文字数 1,138文字

 天正三年 弥生の十六日、
今川氏真(うじざね)が相国寺を訪れる際、
輿にでも乗って現れるのかと仙千代は漠然と想像していたが、
考えてもみれば、
足利将軍家が絶えたなら、
一族扱いである三河吉良(きら)家が後を継ぎ、
吉良が絶えれば今川が継ぐと言われた名門も、
当の足利義昭が備後(びんご)(とも)へ落ちのびて、
鞆幕府と銘打っているものの実態は無く、
そのような幻将軍に裁可を受けて許された輿の身分は、
織田家の天下に等しい今、
とうの昔に失ったものなのだと今更ながらに気が付いた。

 氏真は到着すると自ら馬を降りた。

 桶狭間で後詰を任されていた丹羽長秀、
義元の首級をあげた毛利良勝らが寺前で迎え、
長秀が、

 「どうぞ馬上のままお進みください」

 と勧めても、氏真は、

 「梅香る時候に拝謁を賜る栄誉に浴するとは、
上様の御威光を寿ぐ(ことほぐ)天の采配による興趣につき、
ぜひ梅花(ばいか)を仰ぎ見つつうかがいたく存じます」

 と言い、畏まった態を崩さなかった。
 
 先導は相国寺の住職が務めた。
 寺は足利義満の命により建立された由縁であるので、
氏真一行の案内(あない)役として適任だった。
 伽藍や塔は、二十数年程前に、
細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて全焼後、
現在は信長の力を借りて再建の道半ばにあった。

 謁見では太刀持ちが仙千代、
露払いとして池田勝九郎が侍ることになっているので、
仙千代は急ぎ、信長の許へ戻った。

 上下揃いの肩衣袴という信長の支度を終えた勝九郎が、
日頃ののんびり風情は何処へやら、
今日は緊張の面持ちをしていた。

 「(かつ)が何度も厠へ行くのでかなわん」

 信長が冗談でもなく言った。
勝九郎は緊張すると尿意を催すのだった。

 「はっ、申し訳ございません。
幼き頃より聞かされておりました、
桶狭間の奸物(かんぶつ)の跡目がやって来るかと思いますれば、
何やら興奮がおさまらず」

 仙千代の養父(ちち)は桶狭間で負傷し、
それが故で(もとで)、以降、
戦績を上げられぬまま現在に至っている。
 勝九郎の父、池田恒興は大きな怪我こそ無かったが、
やはり、親族を幾人か喪っていた。

 「興奮など不要じゃ。仙を見よ。
良う(よう)落ち着いておる」

 仙千代は赤面し、俯いた(うつむいた)

 「どうした。顔を赤らめて」

 「私こそ、
先に今川様を見て参りましてございます」

 「うむ?う、うむ……
仙のことだ、何か目論見があってのことであろう」

 「それが……好奇心で、野次馬よろしく、
ただ見て参ったのでございます」

 「たわけ!務めも放り出し、何事か」

 とでも声が飛ぶのかと思いきや、
まったくそのような様子ではなく、

 「ふむ、仙千代は斥候(せっこう)か」

 と笑うと、信長こそ、好奇心を丸出しに、

 「して、どのような様子であった、今川勢は」

 太刀持ちと露払いという二人が共に叱られでもして、
主の機嫌を悪くすることがなく済んだ安堵か、
勝九郎が胸を撫でおろす空気が伝わった。




 
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