第352話 岡崎城(4)託宣

文字数 1,740文字

 十四日、
武田四郎勝頼の三河侵攻に対する軍議が始まった。
 
 総大将として上段に信長が座し、
背後に仙千代と竹丸が侍した。
 
 武田軍は現在、
岡崎の北東十里の長篠城を包囲しており、
周囲を厳しく封鎖していた。
 徳川が放った忍びの報せによれば、
武田は、
城を護る寒狭川(かんさがわ)、三輪川に断続的に岩、石を投げ込んで、
城内の奥平勢に圧迫を加えているという。

 三方ヶ原で信玄は兵力を温存したが、
相対した家康は、
一部家臣が反対する中、
信玄の陽動に乗って積極策に打って出て、
信長配下の援軍も含め、
二千という死者を出し、自軍の五分の一を失って、
自らも数人の忠臣を身代わりとしつつ、
命からがら浜松に逃げ帰った。

 「武田は馬の扱いもさりながら、
(つぶて)を巧みに使うこと、甚だしく。
此度の長篠にも岩石を乗せた曳車(ひきぐるま)が数多、
やって来ておると聞き及んでおります」

 小姓時代から家康に侍る腹心、
榊原康政の声は明朗で通りが良かった。

 弓、槍、鉄砲は戦で優位に使用されたが、
石礫(いしつぶて)は多岐の使用に有効で、
武器としても刀剣より余程、力を発揮した。

 「立て籠っておる上に、
夜を徹して左様な嫌がらせを受けたなら、
心気(しんき)堪える(こたえる)こと甚だしかろう。
奥平はよく耐えておる」

 五百の城兵で一万五千の武田軍に抵抗し、
既に千を討ったという奥平定能(さだよし)、信昌父子の武勇、
忍従を信長は称えた。

 「兵糧、銃器銃弾は、
十分に運び入れてあります故、
装備整い次第、長篠に向かい、
城内の奥平と、西から攻め入る我らが、
四郎勝頼を挟み撃ちにして猛撃し、
退散せんとするところを、」

 と家康は、
かねてからの策戦を確認する意で言った。
 
 信長が遮った。

 「それでは温い(ぬるい)
此度、
勝頼とこれほど近くで対陣するとは、
まさに天の采配、二度とないことであろう。
策を錬磨し、我が方は一兵の損失も出さず、
敗軍を根切とすべし」

 根切という言葉は緊張を高め、
一部武将の顔色を明らかに変えた。

 「恐れながら!
我らは上様の援軍を仰いだ身、
誰もが一命を捨てる覚悟!
なれど、長篠一帯は山と川にて、
彼の地(かのち)で根切の合戦となれば敵味方入り乱れ、
損害が見通せませぬ!
上様の軍勢に、
みすみす傷を付けるわけにはまいりませぬ!」

 という太い声は本多忠勝だった。
康政より幾らか年長の、
筋骨に優れた益荒男(ますらお)だった。
 信長を畏怖、いや、恐怖し、
名を呼ばれただけで縮み上がる将さえ居るというに、
忠勝は思うところを隠さぬ男だった。
 忠勝が言わんとすることは、
それこそ桶狭間合戦と同じく、
最後、狭地で接近戦となれば、
備えと数で圧倒する織田徳川連合軍とはいえ、
どれほど痛手を被るか予想不可ということであり、
その際、
織田勢に甚大な害を与えたならば、
三河の面目が立たぬという話なのだった。
無論、織田軍の被害が大なれば、
徳川軍に至っては壊滅的な有り様ということになる。

 信長は平静を崩さなかった。

 「其は把握しておる。
池鯉鮒(ちりゅう)に出迎えた石川が申しておった。
東西、南を川で囲まれた要害で、
北は深堀と土塁であると」

 「はっ!」

 忠勝は無論、家康はじめ徳川勢は畏まり、
信長の次の言葉を待った。

 「勝頼は余の来援を見越し、
一日も早く長篠を落とそうと、
焦れておることであろう。
ここで尋ねる。
浜松殿は長篠さえ取り返せばそれで良いのか。
勝頼は長篠攻めに失敗しても、
あれほどの版図(はんと)、軍備、名将を抱え、
幾度でも三河、遠江を浸食するであろう。
若い勝頼には勢いがある。
その証左に、
堅牢で鳴らした高天神を手に入れ、
我が美濃に於いても昨年冬、
岩村の明智城を内応工作によって略取しておる。
勝頼の野望を、
三万八千の兵、三千の鉄砲で打ち砕き、
二度と立ち上がれぬようにするのだ」

 さかのぼること十五年、
明日の出撃は無いと家臣団に断言しつつ、
舌の根の乾かぬその早朝、
五人の小姓のみ引き連れて信長は桶狭間に発った。
 信長出立の報を受け、
諸将は大慌てで熱田に参集し、
ようやくそこで全軍揃い、
熱田の宝前に、勝利を誓った。
 浅井・朝倉攻めに於いても、
雨の強い嵐の夜に馬廻りのみ従えて出陣し、
険しい山道で、ようやく武将達が追い付くと、
好機を逃すとは何事と激怒してみせた。
 信長の頭の中では、
思考整理されているのかもしれないが、
周囲はこのような時、ただ驚き、
信長の威圧に屈服し、
従う他ないのだった。

 



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