第332話 離れていた一夜(1)

文字数 1,500文字

 城の麓の公居館で、
今日は信忠も同席し、
昨今の戦況や近付く三河遠征について話しつつ、
夕餉を摂っていた信長は、
仙千代が帰城したと知り、直ちに呼んだ。

 岐阜に居る間は、
夜は代わる代わる側室と過ごすので、
仙千代が一晩不在にしたからと、
信長の暮らしに一見変化は何も無い。
 だが、仙千代が居ない一日の、
何とも落ち着かない心持ちは曰く言い難いものがあり、
それはお互い若い頃に出会い、
ここまでの生涯を共に過ごした丹羽長秀が、
何かの折に遠方へ出ている時に年若かった信長が味わった、
甘酸っぱい焦燥と寂寥に似ていた。
 譜代の家柄ではなく、
特別に家格が高いわけでなく、
正式な初陣は十九才と遅く、
武功が無いわけではないが突出しているでもなく、
それでも、いかなる時も信長に寄り添って、
何事も別心無く取り組む長秀を信長は寵愛し、
特別視して手離さず、
婚期さえ、大きく遅れさせた。
 最終的には信長の庶兄の娘を信長の養女とし、
長秀に嫁がせ、二人は舅と婿という形になって、
新たな契りを交わし、
また信長は、
長秀を織田家の家臣初の国持大名に据えると、
その城のある佐和山には京と岐阜の行き帰り、
ほとんどの場合、立ち寄って宿泊した。
 
 当然、とうの昔に、
閨房を共にすることはなくなっていて、
顔を見れば(まつりごと)と戦の話で終始するものの、
かといって佐和山を通り過ぎることは出来ず、
足が向いてしまい、
京と目と鼻の先である長秀の城に寄ることは、
信長を安らげた。

 信長が特別な寵愛を傾けた小姓出身の武将、
前田利家、堀秀政ら、
出色の家臣は何人か居るには居るが、
少年期を共に過ごした、
たった一歳年下の長秀は別格だった。
 そして、
長秀に向ける気持ちと似た思いを仙千代に抱いている自分を、
信長は知っていた。

 未だ失われることのない、
仙千代の素朴さは信長の疲れを癒し、
聡さは話して小気味よく、
可笑しみは気分を宥め(なだめ)
褥での清艶な様は魅力を放ち、
信長に潤いと活力を与え、飽きさせることがない。
 一日半、離れていただけであるのに、
早く仙千代を確かめたくて堪らなかった。

 仙千代、彦七郎は、
信長父子が食事を終えた間合いで姿を見せた。

 昨日、先に彦八郎から、
橋本道一との話の一切を聞いて万事了承しているので、
夕刻ようやく帰ったばかりの二人を呼ぶことはないのだが、
信長の裸の心がそうはさせなかった。

 仙千代達がやって来る前、信忠が、

 「今宵は休ませてやり、
明朝、朝餉の際に、
家臣団が揃う前で報告させれば良いのでは」

 と、言った。
特殊な事情が無い限り、
家臣団屋敷地に居住している主立った臣下は、
信長と朝を共に摂っている。
 今日はもう陽が傾いていて、
信忠の言うことは尤もだった。

 しかし、正論を吐かれれば面白くなく、

 「彦八郎の報告だけでは足りぬ。
なればこそ、帰って早々呼び付けたのだ。うむ」

 と、取り繕った。
 一夜離れていただけの仙千代を懐かしく思い、
ただ顔を見て声を聴きたいなどとは、
息子相手に、とても口に出来はしない。

 「そうだ、それに、
何やら実家筋に良い家来候補が居るようで、
その件も聞いておかねばならぬしな」

 それこそ明朝、明後日でも構いはしない事案だったが、
信長は言い通した。

 特に何も返らないので、信長がちらっと見遣ると、
信忠は顔色ひとつ変えるでなく、
黙して湯を啜っていた。

 城中で、信忠の評判は非常に良く、
感情の浮き沈みが少なく、冷静で、
人扱いの公平さ、人心の機微を酌む人柄は、
とりわけ、若い臣下の信が厚いと聞いていた。

 いったい誰に似たのか……
誰を倣って(ならって)、斯様な男になったのか……

 自身の若い頃によく似た高い鼻梁の横顔を眺めつつ、
信長は思うでもなく、思っていた。

 


 



 


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