第413話 仏法僧の夜(12)勝栗①

文字数 1,234文字

 梅雨の晴れ間の陽は落ちて、
暮れなずみ始めていた。

 信長が重ねた唇を受けた仙千代だったが、
舌を押し込まれ、
背をぎゅっと抱かれると、

 「ここまででございます」

 と軽く逃れるようにした。

 信長の抱擁は続いていた。

 「何もせぬ。
顔を見ておるだけじゃ。
こうして間近で、毛穴が見えるほど」

 またしても口で口を覆おうとする。

 「なりませぬ。
小姓が入れず、きっと困っております」

 「他の誰にも用はない」

 「私が忙しいのです、宴の差配が」

 「仙千代が悪い。
その目、口もと、声、何とも言えぬ」

 信長が陣幕の奥へ連れ込もうとした。

 「上様、怒りますよ」

 半ば冗談、半ば本気で(たしな)めると、
玩具を取り上げられた子供のような顔をしてみせ、

 「つまらんな。ああ、つまらん。
無粋な奴だ」

 と大袈裟に言って、
どかっと座った。

 信長が座すと同時に、
直ちに小姓達が姿を現し、
予め仙千代が命じていた通りに、
宴の支度を始めた。

 信長は小腹が減ったのか、
先んじて運ばれた木の実の皿から勝栗をつまむと、
口中で転がしながら、
仙千代の口にも一粒入れた。

 二人きりでもないのにと思い、
仙千代は人目を気にしたが、
当の信長が何処吹く風なのだから、
仕方ない。

 「そろそろ徳川勢が顔を出す頃か。
そういえば、酒井の年若い嫡男が父に従い、
此度の実戦に加わったという。
たいしたものだ」

 「確か十二であるとか。
是非にもお会いしてみとうございます」

 「そうだな。
連れてこなんだら呼び寄せよう」

 その件で仙千代は去来するものがあった。

 「時に上様」

 「どうした。もっと食べるか?」

 やたら機嫌の良過ぎる信長も、
ある意味、扱い辛かった。

 「栗の話ではございません」

 小姓達は出たり入ったり、
慌ただしく立ち働きながらも、
信長と仙千代に近付かないよう、
気配りを見せていた。
 
 それでも仙千代は声を低めた。

 「この後、武田は、
態勢の立て直しに躍起になりましょう、
なれど、
譜代の重臣をあれまで亡くせば、
四郎勝頼が求心力を失うことは必定。
また、若殿が、
甲斐、信濃に迫って出陣なされば、
徳川様も負けじと武田に圧を加えましょう。
此度の快勝で徳川様が得られた果実は、
凄まじきもの」

 武田という巨魁の崩壊は、
信長にとり長年の重しが外れる慶祝だったが、
家康も家康で、信長の援けを得て、
三河での地位を盤石にし、
末は遠江、駿河まで支配を広げ、
大身になることが決まっているも同然だった。

 「出羽介(でわのすけ)が岩村城攻めに出れば、
浜松も負けじと動く。
高天神はじめ、
あちこち奪い返さねばならぬでな、
浜松は。
上げ潮に乗って、
さぞ厳しい手に出るであろうよ」

 信長は栗を美味そうに食べている。

 「上様。
ずいぶん空腹でいらっしゃるのですね」

 聞いているのか、いないのか、
栗を頬張る信長に仙千代は嫌味を言った。

 「何を拗ねておる。
聞いておる、ちゃんと」

 「では私の真意、御承知なのですね」

 「まあ、分からんでもない。
浜松が力を持ち過ぎてはならぬと、
警戒しているのであろう」

 仙千代は頷いた。

 
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