第66話 蘭奢待(2)

文字数 1,401文字

 秀政、竹丸の話を要約すると、
蘭奢待こと黄熟香は、南方の山岳地帯が原産地で、
成人の女ほどもある巨大な沈香(じんこう)だということだった。
 沈香は沈丁花科の樹木が幹の中に分泌した樹脂成分を採取した物で、
樹脂は、傷ついたり、害虫に食われたり、
風雨に晒されたりすることに対する防衛反応として分泌され、
千年以上の歳月を経てようやく採取できるようになる。
中でも質の良い物は伽羅(きゃら)と呼ばれ、
人工的に作ることは不可能だった。

 殿の御着物に焚き込める香は伽羅が多いが、
その伽羅とも違うのだろうか……

 仙千代の疑問を見透かしたように竹丸が言った。

 「天下一の香木、蘭奢待は未だ、
切り取りを許された者が三名しか居られぬ。
室町幕府の将軍の御三人様じゃ。
他の将軍も希望されたというが叶わず。
我らの殿が此度もし拝見なさるといえば四人目となられる」

 彦七郎が思わず返した。

 「見るだけなのですか?」

 秀政が笑った。

 「もちろん、拝領される」

 「天下人といえども誰もが頂戴できるものではない……
ううむ、その蘭奢待とやら、何故、殿は御所望遊ばれたのです」

 彦七郎が鼻息も荒く、尋ねる。
 秀政が彦七郎に逆に訊き返した。

 「何故だと思う」

 「それはもう、我が殿は好奇心の強い御方ですゆえ、
御自分の目でお確かめにならずにはいられないという御心理」

 秀政が声を立てて笑った。

 「まあ、それもあるやもしれぬ。無いとは言い切れぬ。
仙千代はどう思う」

 「殿の御力をお示しになられるということでございますか」

 「うむ。天下にな」

 「天下に!」

 「将軍とて許されぬ蘭奢待の拝見が叶うとなれば、
我が殿の威勢を万人が知るところとなる」

 その秀政に竹丸が続けた。

 「大和の国はようやく平定が為されつつある地。
蘭奢待を我が殿が拝領されるとなれば、
斯の国を治めるにあたり、
せずとも良い争いを省く良い手立てとなりましょう」

 「その通り。殿も無駄な戦は望んでおられぬ」

 仙千代は一つだけ、秀政に問うた。

 「威圧することになりませぬか?帝を」

 秀政の目が光った。

 「うむ。そこに思い当たるのはなかなかだ。
殿のお考えが如何なものか、
その部分、確かに推し量りかねるものがある。
が、殿はあの御性格ゆえ、
そこはお考えに入っておられぬやもしれぬ。
あの御性格ゆえ……な」

 秀政の最後の呟きに、一同、ちょっとした溜息が出た。
信長は複雑な性格をしていたが、複雑に見えるのは、
あまりに純で真っ直ぐな故なのかもしれなかった。
欲に忠実過ぎるその性格は常人の想像を超えるものがあり、
内心、仙千代は、

 おそらく殿は、香木自体、
さほどの興味はおありでないに違いない、
殿が真から焦がれておられる御相手は、天下、
ただ天下、そのものだ……

 と最後は思った。

 天正二年弥生の二十八日、
大和国奈良の多聞山城の御成りの間の舞台に於いて、
東大寺からの使者により運ばれた蘭奢待を信長は見た。
 信長は、予め呼んでいた仏師に、
小さな仏像の大きさ二つ分を切り取らせると、
同席の佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀ら重臣や、
馬廻り、小姓達に、

 「末代の物語に拝見しておけ」

 と言い、仙千代も有り難く見させてもらい、
姿、香りも確かめた。
見目は濃い茶色の樹の皮のような、幾らか不気味な形をしていた。
 香木なのだから、焚けばいっそう芳香が漂い、
天にも昇る心持ちになるのだろうが、
収められている長持に顔を寄せてみるだけで、
芳芬(ほうふん)たる香りが伝わった。




 




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