第322話 帰郷(10)

文字数 1,119文字

 邸では仙千代の為、
蒸し風呂の用意がされていた。

 仙千代は一緒に入った父に、

 「御背中、お流し致します」

 と、糠袋で擦った。

 やがて、
長島での仙千代の背の傷痕を目にした父は、

 「痛みが残っておるのではないか」

 と案じてくれた。

 「いえ、運が良いのか、まったく。
むしろ昇り龍のようだと言い張って、
自慢にしておるぐらいでございます」

 父の心配は図星で、
深傷だった箇所は、今も寒い日に、
時折ビリっと(いかづち)のように鋭く閃光が走った。
だが、痛みをおして長年務めに励み、
一家を成してきた父の労苦に比べれば、
たいしたことではなかった。
 また、飢えと渇きの地獄を生きて、
最後、井戸端で捕縛された後、
容易に死ぬことを許されず、
被虐の中で苦しみ抜いて亡くなった、
一向宗の兄弟の念がそうさせていると、
思うでもなく思う心もあった。

 斬った、刺した……
あの兄弟を儂は……
二人は三途の川を渡らずに、
儂を待っているのやもしれぬ……
儂を地獄の渡し船に乗せるまで、
往生はできぬと……

 仙千代と並んで湯気に当たりつつ、
父は目を閉じ、寛いでいるように見えた。

 「昇竜か。
ふっ、左様に申すと思っておった。
仙は幼き頃より辛抱強い子であった故に。
だが、夜中の厠だけは、
十を過ぎても一人で行けず、
誰かを起こしては、
付いていってもらっておったな」

 「父上!それは仰らず!」

 仙千代が父の胸に湯を浴びせると、
二人で笑った。

 夕陽が部屋を朱く染め、夕餉になると、
給仕を兵太と兵次が行い、
母は、父と仙千代の下座に付いて、
父子の会話を楽し気に聞いていた。
 妹は、座敷の隅で、
土産の『御伽草子』を飽かずに見ていて、
時に仙千代に読めぬ字を訊いた。
 
 父が、

 「儂が教えてやろうぞ」

 と茶々を入れると、

 「兄上が下さった御本です故、
兄上に教えていただきたいのです」

 と、口を尖らせる真似をして、
度々仙千代の教授を仰いだ。
 絵草子と一緒に仏教説話集も与えたが、
やはり絵草子に食指が先ず動いたらしかった。

 城の姫君や侍女達と違い、
五月の初旬だというのに妹はもうすっかり日焼けして、
御丁寧に雀斑(そばかす)まであった。

 「えらく焼けておるな」

 と仙千代が問うと、

 「畑仕事(はたしごと)が好きです」

 「ほう、それはまた。何が楽しい」

 「地を分けて芽吹き、茎が伸び葉が開き、
蕾がついて花が咲き、実が成って……」

 「実が成って?」

 「私のお腹に収まりまする」

 目がなくなる程に細めて笑った。
 妹の健やかな成長は、ただ愛しかった。

 日が沈むと、
一緒に居たがる末娘を母は急かすようにして、
寝所へ連れていった。

 女子衆(おなごし)の姿がなくなったところで、
仙千代は話題を移した。

 「時に、
長島から東に力をふるった服部家の残党は、
その後、如何しておるのですか」






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