第162話 *小木江城 さらし*

文字数 720文字

 「なりませぬ、今宵、殿は仙千代のもの、
そう仰せになったではありませぬか……んんっ」

 常は健やかに日向の匂いを彷彿とさせるような仙千代が、
慎ましさも何処へやら、
妖しげな言葉を発するその唇に、
振り乱した髪の幾筋かが掛かり、
誰一人このような仙千代は想像ができぬであろうと思うと、
信長が堪える(たが)(せき)も外されてしまう。

 「もう止めておくのだ」

 「殿の御道具はそうは言っておりませぬ」

 「ならぬ……病み上がりの身で……」

 「ここで止めたなら、また臥せってしまいます」

 「むうっ、仙千代……」

 そこから先は口で塞がれてしまった。
信長の抵抗は今度こそ、そこで終わった。

 日々、厳しい務めを終えて自室へ帰った後さえも、
筆を取り、何かと具に(つぶさに)記し、
または時に、写経をしている仙千代を信長は知っている。
 後に続く若輩の小姓達も、
控え目ながら何ごとであれ的確で、
無駄のない教えを垂れる仙千代をあてにして、頼ってもいる。
 ところが夜の仙千代は、
魔性といえば本人は愉快ではないかもしれないが、
万事に熱心な性分がそうさせるのか、
本質がそのように出来ているのか、
昼とは別の人格と言って良いほどの変化(へんげ)を見せる。
 その二面性、
いや、多面性は、信長を虜にし、離さない。
 観音堂で見初めた朴訥極まる純な童が、
このように重ね重ねも興しろく、
また、たとえ閨房という特殊な場であろうとも、
年の離れた主君と渡り合う度胸を備えた生き物だったのかと思うと
返す返すも仙千代が無二であることを思い知る。

 自慢の仙千代、宝の仙千代、
仙千代が居らねば一日も明けぬ……

 いつしか夕べは夜となり、
部屋は昏さ(くらさ)を増した。
 信長に馬乗りとなっている仙千代の白いさらしが、
狂おしく妖しい動きと共に浮かんで映る。




 

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