第400話 志多羅の戦い(19)はなむけ①

文字数 1,105文字

 原昌胤(まさたね)が連合軍を引き付けている間に、
勝頼を戦場から送り出す任にあたったのは、
馬場信春だった。
 
 信春は、
佐久間信盛、滝川一益、佐々成政ら、
織田家の歴戦の雄が分厚く展開していた左翼を攻めて、
一時は連合軍の陣形を大きく崩壊させ、
そのまま勝頼が戦略的撤退を決行していれば、
織田、徳川の物心の痛手は小さからず、
深い爪痕を残すことが可能だった。

 しかし勝頼は、
引くことを許さなかった。

 生前、
信玄が指揮を執った三方ヶ原の戦いで、
家康が危機一髪、
浜松城内へ辛くも逃げ帰った時、
城門間近まで追撃したのは馬場信春で、
家康は、

 「武田随一の武者、
馬場美濃守(みののかみ)に切り崩された」

 と信春を称賛したと聞いたことが、
仙千代はあった。
 また、古典や書画骨董に造詣の深い信玄が、
かつて今川家の居城 駿河城を攻めた時、
城を焼き払うことなく、
伊勢物語の原本など古今の宝物(ほうもつ)を持ち帰るよう、
先鋒の信春に厳命しておいたものを、

 「たとえお屋形様の指図であっても、
敵の宝を奪い取るなど、
三流武士のやることだ。
甲斐の武田が物笑いの種になってはならん。
構わぬ、燃やしてしまえ」

 と言い放ち、
曲輪(くるくるわ)に大挙して押し込むと、
片っ端から燃やしてしまい、
駆け付けた信玄は、
炎を上げる重宝に唖然としつつ、

 「流石、兄とも慕う軍将殿だ。
一国の主が野盗のような真似をしたとなれば、
末代までの恥である」

 と苦笑して、呟いたという。

 信長に侍る菅屋長頼が、

 「馬場信春が勝頼と姿を消しました。
討伐軍を増やされますか」

 と意向を尋ねた。

 主従が分け入ったのは、
北の鳳来寺山で、
奥三河随一の古刹 鳳来寺を擁した深山だった。

 西へ移り始めた陽に目を細めながら、

 「儂の考えが正しければ、
馬場は必ずや引き返してくる。
馬場と並ぶ旧臣で参戦した者は、
この地で絶命しておる。
信玄の命を受けて尚、
宝物を焼き払うような男だ、
この合戦を最後の奉公と決めて臨んだはず。
馬場が帰って来ぬなら、
武田菱の一竿(ひとさお)さえ三河から出さぬ勢いで、
討ち果たすのみ」

 と応じた信長は、
信春を待ち、焦れていた。
 仙千代が竹筒の清水を差し出すと、
一気に飲み干し、
勢いで水がこぼれようとも気にしなかった。

 馬場信春の志多羅への帰参を、
上様は待ち望んでおられる……
武田の一門衆が逃亡した後に、
勝頼に付き従った馬場殿なれば、
確かに上様が仰せの通り、
主の無事を見届けて、
再び合戦場に見舞えぬとも限らず……

 武田一族が逃げ出した様を見て、
怒り猛った信長であるだけに、
勇者 馬場美濃守(みののかみ)信春の名誉ある最期は、
是非にも我が手でという思いを、
信長は強くしているのだと仙千代は見た。

 半刻程経ったか経たぬか、
はたして信春は信長の眼下に再来した。


 
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