第70話 賀茂祭り(1)

文字数 1,250文字

 五月に入り、岐阜を離れて、およそ二月(ふたつき)経っていた。
梅の季節であったのが、今は皐月(さつき)石楠花(しゃくなげ)
つつじ、雪柳、山桜と百花繚乱で、
同じ花であっても京で見る花は何やら雅に感じられ、
仙千代が彦七郎にそれを言ってみたところ、

 「花のことは儂には分からん。
しかし京の女人が美しゅう映ることは確かじゃ」

 と笑った。

 このあと、どれほど京に居るのだろう……

 時折、無性に岐阜へ帰りたくなる。
そこには信忠が居た。

 若殿は、西や南への侵攻を窺う武田勢を、
的確な指示でよく食い止めておられるという……

 京に居る信長の許へ信忠の名で岐阜から書状が送られてくる。
そこには尾張、美濃を取り巻く情勢、城下の現況、
武器弾薬、兵の調達などが記されていた。
信忠の自筆ではなく祐筆が書くものなので、
書状自体は単に連絡事項なのだが、
信忠が書かせているものだと思うと胸が高鳴った。

 三郎や清三郎が居て、新たに勝丸も召し上げられて……
まるで後宮じゃ、若殿の……

 離れていれば信忠が気に入りの小姓と共に居る姿を見ずに済む。
会いたい、声を聴きたいという熱望はあるが、
傷口に塩を擦り込まれるようなことはない。

 信忠の部屋で言い争って別れた日から二年経っていた。
奇妙丸だった信忠と出逢って以来、二年半の間、
互いの思いを打ち明け合って、
夢のように過ごしたのは津島での二日間だけだった。

 もう忘れよう……
もう、いいではないか、もう十分お慕いし、
惨めになって、苦しんで、
二年という歳月が流れてしまった……
殿のお傍でお勤めに打ち込んで、あと数年もすれば、
元服をして、戦に出、(つま)を迎える……
あと、たった数年で……

 京や大和では、
岐阜で耳にしていた高位の貴族や大本山寺院の法主(ほっす)
名門の大名などと信長が会い、
傍に侍る仙千代も天下の政務を間近で見聞きすることになる。
常に近侍しているので顔や名を覚えられ、
急な来訪であったりすれば信長に取り次いでもらおうと、
仙千代や竹丸に、
公卿や大身の部将が遜る(へりくだる)ような態度を見せる。
何も自分が偉いのではないと知っているので、
仙千代も竹丸も勘違いはしないが、
たかが十代半ばの小姓に頭を下げなくてはならぬとは、
信長の威厳と威光が思い知らされた。

 五月の五日、
賀茂祭りの競馬神事と天下平穏の祈願が行われ、
信長が幸い在京していることから神社側から願い出があり、
信長は馬を貸し出すことになった。
 度々勝ち戦に乗った鹿毛(かげ)と芦毛の馬を一頭づつと、
その他、馬廻りの駿馬十八頭を信長は揃え、計二十頭、
競馬十番分を出場させた。

 すべての馬に鞍、(あぶみ)(くつわ)など名品の馬具を着けさせ、
馬をひく舎人(とねり)達も美々しく着飾らせ、
その壮観さは過去に見たことがないと皆が驚嘆した。

 黒装束の神官十人と赤装束の神官十人が一番づつ馬を走らせる。
鹿毛と芦毛はもともと走り上手な駿馬だったので言うまでもなく、
他の十八頭も勝利をおさめ、
貴賤老若の別なく集まった京の人々は、
あらためて信長の威勢を目の当たりにした。

 競馬神事の結果が思ったようなものだったので、
信長の機嫌は言うまでもなかった。





 
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