第383話 志多羅の戦い(2)兄と弟②

文字数 990文字

 一つしか違わない弟だが、
信雄(のぶかつ)にはいくらか気楽なところがあって、
兄としては、
憎めぬものを覚えるのだが、
今も思ったままを信忠に口にしてみせ、
言の葉の端には、
父に対して少しばかり非難めいた響きがあった。

 「上様の御立場になってみよ。
家中にさえ敵が多かった時代、
若き上様を支えてくれた、
長谷川橋介ら四人の御小姓衆、
上様が子のように目をかけていた平手汎秀(ひろひで)が、
三方ヶ原で討死している。
上様の御嘆きは仇を取って尚、
消し去ることができぬであろう。
逝った者は帰って来ぬ……」

 信玄が家康を誘き出し(おびきだし)
痛恨の敗北を与えた三方ヶ原では、
長島で奇襲を受けて亡くなった玉越清三郎の兄も、
戦場の露と消えていた。
 兄の死を受けて清三郎は、
武士になることを一段強く熱望し、
信忠の許に身を寄せた。
 その清三郎はもう居ない。

 「御坊や武王、そして松姫は、
如何なる思いで、
この戦を見ておるのでありましょう。
聞き及ぶところ、
姫は如何なる縁談にも首を縦にせず、
異母兄(あに) 勝頼を困らせていると」

 母違いの多くの兄弟姉妹を持つ信忠にとって、
この信雄と、家康の嫡男に嫁した徳姫は、
母を同じくする格別に愛しい存在だった。
 だが信忠に、
今それを漏らした信雄には、
戒めを与えぬわけにはいかなかった。
物を言うには、
時と事情を選ぶ必要がある。

 「茶筅(ちゃせん)

 「はっ」

 日頃は通称の三介と呼ぶところ、
今は敢えて幼名の「茶筅丸」から呼んだ。

 「蛙は口から呑まれると言う。
口禍には用心せよ。
長生きしたければ」

 「蛙が口から?
雉も鳴かずば撃たれまいの意でしょうか?
はい……」

 家中に於いて、
信忠の上に信長しか存在せぬように、
信雄の上にも父と兄しか居らず、
また嫡男ではない故に、
信雄には気ままな一面がないではなかった。
 異次元の扱いを受ける一方、
父から厳しく見張られて育った信忠に比較して、
大らかと言えば大らか、
幾らか我儘な信雄は、
信忠には羨ましさもありつつ、
時に危うさが感じられた。

 けして短くはない歳月、
松姫と手紙(ふみ)を交わした兄を知らぬでもあるいまいに、
松姫の異母兄(あに)と一戦を交えようという今、
そのようなことを漏らす弟を信忠は叱責した。

 「申し訳ございませぬ」

 何処まで分かっているのか、
信雄は詫びた。

 信忠は、

 「朝餉としよう。
兵達も、
大将が食わねば食うわけにゆかぬからな」

 と、反省の色を見せ殊勝にしている信雄と、
控える河尻秀隆に言った。



 


 

 


 







 

 
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