第259話 側近団の朝餉(4)

文字数 1,679文字

 仙千代の口から毛利新左衛門良勝の名が出たことに、
信長は大きく満足を得た。
 
 つい先程は、信長が、
明日から朝餉は握り飯にせよと言ったことを真に受けて、
恐縮しつつも威勢よく礼を述べ、嬉しそうにして、
図らずも皆の笑いを惹き起こし、
場を和ませていた「梅干し種の仙千代」が、
今は今で、あくどいとはまでは言わないにせよ、
ずいぶん辛い手段で、
今川氏真(うじざね)の首元を抑えるような手管を発案するものだと思い、
愉快で堪らない。

 仙千代を迎えて良かった、
仙千代を招んで(よんで)良かった……

 信長の脳裏に、
雨漏りの原因を調べる為に、
十二才の仙千代が鯏浦(うぐいうら)の家の屋根に上っていた姿が過った(よぎった)
高位の家格の子であれば、
小姓勤めの中に時として衆道の交わりが含まれていること、
またそれはごく当たり前であって同時、
非常な名誉であると前以て教わった上、城へやって来る。
 仙千代はそのような知識を持たぬまま信長に召し寄せられて、
例えば竹丸のように、
さざ波ひとつ無い澄んだ湖面の如く、
小姓仕事に馴染んでいったわけではなかった。
 その仙千代が十六を迎えた今、
信長さえも瞬時には思い付かない手管を繰り出し、
例えば、古狸の矢部家定の身を乗り出させる。
 
 仙千代、可笑しな奴だ、
仙には笑うしかない……
見目形に惹かれ、召し上げたのは間違いない、
だが、美しい(うつわ)に入ったその中身こそ、
儂を頗る(すこぶる)楽しませるものだ……

 「強過ぎますかなあ、刺激が」

 古参の福富秀勝が入った。
秀勝が何も信長の意に反しているのでないことは、
自然、誰にも伝わっている。
義元の首級をあげた良勝の名を耳にした時点で、
信長はじめ、
全員が仙千代の案を巧手であると認知していた。
むしろ秀勝は全員一致であるからこそ、
氏真を迎える段に綻びや油断、
また翻って、何事につけ行き過ぎが有るや無しや、
確認で発したのだった。

 末席の仙千代に最も初めに問うたのならば、
順序として、次は竹丸だった。

 「どうだ、竹丸」

 「毛利殿の指が欠けていることに、
今川様はお気づきになられるでしょう、
茶事ともなれば、必ずや」

 「うむ!よくぞ申した。
すっかり見慣れて、
新介が断末魔の義元に指を食い千切られたことを、
忘れておった。
そうだ、新介は左の指が無い。
義元があの世へ持っていったのだ」

 桶狭間の合戦で、
今川義元と刃を交えた二人の小姓の一人である服部一忠は膝を斬られ、
もう一人、今、話に上がっている毛利良勝は、
義元と死闘の際、左の人差し指の根元を噛み砕かれ、
最後、首を狩ったは良いが、
はたと気付けば自身の指を失っていた。

 「茶席であれば尚のこと、
あるべきものが無いことに最も目が行きましょう」

 と、温厚な大津長昌も加わった。
あるべきものというのは、無論、良勝の指を言っている。

 信長が頷き(うなづき)、受けた。

 「噂では聞き及んでいたであろう、
(おの)が父の仇の指が無いことを。
十五年を経て目の当たりにし、幾らかでも溜飲を下げるのか、
いや、五倍六倍の兵で敗けをみた父の口惜しさを、
今一度噛み締めるのか」

 永禄三年の皐月の半ば、
駿河及び遠江、加えて、事実上、
三河も含むという広大な領土に君臨する今川義元が、
小さな尾張を呑もうとしていた。
 織田家中は臣従派と籠城派に分かれ、
主戦派は極めて僅かであって、
尾張一国の統一さえ道半ばの若き信長にとり、
義元が大軍を率いて西へ出馬という報は、
血沸き肉躍るものであると同時、
死を覚悟した一戦でもあった。
 父、信秀は、生涯一度も籠城戦をしなかった。
援けが来ればまだ良いが、味方に犠牲を強いた上、
救援が無ければ最後は敗ける。
臣従も然りで、とどのつまりは食われて消える。
信長にとっては一も二もなく戦うだけが道だった。
 厳然と、義元の首級は確かめた。
だが、喜悦は一瞬で、
数多の忠臣、小姓、兵を失った事実は重く、
以降、二度と大軍に寡少で挑むような真似はしていない。

 白湯を啜った(すすった)信長は、
紅白の梅が咲き、
梔子(くちなし)にも似た香りが運ばれる朝の相国寺の部屋で、
桶狭間の雷鳴の中で嗅いだ泥と草いきれの匂いが、
ふと鼻先に漂った気がした。

 信長が黙したことで誰もがその心中を推し量るのか、
場には静寂が訪れた。



 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み