第275話 那古野城(3)

文字数 1,189文字

 「大殿が一晩で如何にして城を手に入れられたのか、
ひどく興味の持たれるところでございます。
そして、その後、何故、戦闘が起きず済み、
大殿の入城が粛々と行われたのか、
そこに尚も強く興味が湧きます」

 仙千代の言い方は婉曲だった。
だが、ここまでのやり取りで、
仙千代が信長が語らんとした本意の大部分を既に
解していると信長は知った。

 「もうひとつ、思っていることがあるであろう」

 仙千代の腰を撫でていた信長の手に、
仙千代が手を添え、控え目な口振りながら、
明快に答えた。

 「亡き義元公が何故、尾張に進軍したのか。
巷間、様々に伝えられる中、
上様におかれましては、駿河の太守は、
織田の大殿にかつて奪われた城の奪還に出たと、
左様な御考えなのですね」

 「そうだ。氏豊が盗まれた城を取り返し、
庄内川を挟んだ清須に(くさび)を打ち込むが為、
今川は大軍で押し寄せたのだ」

 信長の居城 清洲城と、
林秀貞に城代をさせていた那古野城は一里半、
僅か半刻(はんとき)の距離だった。
 今川が那古野城まで侵攻し、
尾張の半分を勢力下に置いたなら、
川一本跨いだ(またいだ)だけの、
たださえ小さな尾張の残り半分は、
東に今川義元、北に美濃の斎藤義龍を背負い、
金縛りに遭ったように身動き一つ出来なくなる。
 
 「では、大殿の奇計に、
積年の恨みを募らせていた今川が、
二十年以上の時を経て、
ついに打って出たのが桶狭間ということなのですか」

 「人は色々なことを言う。
だが儂はそう観た。
義元の歯ぎしりの歯が砕ける程に、
盗み口が鮮やかだったのだ、父上は」

 仙千代が身を寄せてきた。
好奇心に満ちた眼差しは煌めいている。

 「父上は二十代半ば、
氏豊も今の仙千代ほどの年齢だった。
連歌を通して氏豊と懇ろ(ねんごろ)になった父上は、
信用を得て、
那古野城の前身、柳ノ丸に何日も逗留するようになった」

 「今川家の人々はほんに風流人なのですね」

 「何事も過ぎれば災禍(さいか)を招く。
一城の主がそれではな。いくら若年とはいえ」

 仙千代は頷いた(うなづいた)

 「歌に狂った氏豊は父上の魂胆など露知らず、
やってはならぬこと、
けして許してはならぬことを、した。
父上がいつも泊る部屋に窓を所望したところ、
夏の風を楽しみたい風雅なのであろうと、
氏豊は許可してしまったのだ」

 「えっ!」

 「その驚きぶりが正しい。
仙が城主であったなら許しはせぬであろう?」

 「寝所に窓を設ける、いや、設けさせる?
氏豊殿はどうかされたのですか?」

 心底驚いて目を見開いている仙千代の反応に、
信長は声を立て、笑った。
 仙千代は容赦なく畳みかけた。

 「何を血迷って。
氏豊殿は、まこと、虚け(うつけ)者……」

 「騙す父上も父上なら、
まんまと乗せられ、
いや、自ら乗るかのような氏豊も氏豊じゃ」

 常在戦場の意気が当たり前である戦国武将が、
外に向けて開口部のある部屋で就寝するなど有り得ないことで、
己の城でそれを許すとは、
いったいどのような育ちなのかと、
失笑さえも禁じ得ない。




 
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