第190話 月影(4)

文字数 1,444文字

 信長は仙千代の顔を両手で包み、
激情をぶつけるように口づけてきた。

 「殿、殿!
仙千代は嫌な奴でございます……うんんっ!」

 主君に対し大きな甘えだと知っていながら、
仙千代は思うがままを口にして、泣いた。

 信長が両手で顔を包んだまま、
仙千代を見詰めた。
 眼差しは真っ直ぐだった。

 「儂にしか出来ぬ。
儂が乱世を終わらせる。
親族、忠臣を喪ったことは悲しいが、
誰もが悔いてはおらぬであろう。
皆、精一杯生きた。見事に散った。
武将であれば誰一人、高みの見物はしておらぬ。
この身を賭して生き、散るは覚悟だ。
武将であれば」

 心に浮かんだままを主にぶつけ、
あろうことか泣いてみせるとは我ながら情けなく、
それでも真摯な答えが返されてきたことに、
仙千代の心は動いた。

 「仙千代が百人斬ろうが、千人斬ろうが、
仙千代は仙千代だ。
儂の手足、心なのだから嫌になどならぬ。
仙千代が何を言おうとも、
どのような仙千代であろうとも、思いは変わらぬ。
常に儂の傍に居て、生死を共にするのだ」

 信長の言葉すべてを咀嚼し切れたわけではなかった。
しかし、信長の強い思い、深い情けは伝わって、
感情の整理がつかないまま、
仙千代はその肩に抱き着いた。

 「仙千代!」

 「殿、殿!」

 宴を抜け出してきたことは頭の隅にあった。
それでもこの後は、傷の疼きも、
心の痛みも忘れるように乱れ、
あれほど喧しく(やかましく)鳴いていた虫の合唱も耳に届かず、
快楽に没頭し、濃密に激しく求め合い、
悦びを貪った。

 「殿、許してくださいませ、仙千代を」

 心には信忠が居る。
 出逢った時は奇妙丸とギンナンだった。
三年が経ち、今では、
織田家の副大将と総帥の側近小姓となって、
私情を交えることはない。
しかし思いを封印した箱の中には、
何よりも大切な思い出が閉じ込められている。

 儀長城の餅つき行事の朝、
三宅川の堤に並んで座って眺めた遠い山々、
元服を終えた奇妙丸が信重となり、
若殿の小姓として過ごした日々、
初夏の津島の蛍の群舞、
すべてが純に澄みきって、美しかった。

 思い出に蓋をするように、
仙千代は信長に抱き着き、

 「殿、お尽くし申し上げます!殿にだけ!……」

 「うむ、うんん!」

 「お許しください、仙千代を、お許し……」

 「許しておる、いつも仙千代を許し過ぎておる」

 「違うのです、違うのです、殿、殿!」

 「何が違うのだ、申せ。
申して楽になるのなら申すが良い」

 「違うのです、違うのです、ああっ……」

 「何が違うのだ、何が……」

 「ああ、殿、仙千代は、仙千代は……ああ!」

 信長の喜悦の声が仙千代を包む。

 「その顔が良い、その顔じゃ、
仙のその顔が堪らぬ、目も口元も……
天からの授かり物、儂の仙千代……」

 そう、仙千代は殿のものでございます!……

 とは、いくら悶え狂っても出ることはなかった。

 儂は儂じゃ、仙千代は仙千代だけのもの、
そのはずじゃ!……

 しかし、熱のこもった愛撫に身体は信長を求め、
強く深い情けに対し、
全身全霊で返さねばならないという思いが入り乱れ、
もう既に自分は信長の一部になっているのではないかと
仙千代は駆け上がる熱い感覚の中で意識した。

 仙千代は仙千代自身のもの!
その仙千代は、殿にお尽くし申し上げます、
仙千代のすべて、殿にお捧げ申し上げます!……

 座した信長に対面で仙千代は身を乗せ、
両腕で肩にしがみつき、口づけを浴びせた。
 汗も唾液もどちらがどちらのものなのか混然として、
溜息吐息もひとつになった。
 この刹那、仙千代は、ただ信長を求めていた。


 



 

 

 

 


 



 

 


 


 















 
 

 

 
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