第99話 夢の紫陽花

文字数 2,098文字

 紫、薄紫、白に近い紫、
ほんのりと桃色がかった紫……
 
 紫陽花の苑で、清三郎が屈んで、何やら手を動かしている。
視線を一心に手元へ集め、上に下に動かして、
編んでいるのか、塗っているのか、組み立てているのか、
ひたすら、何か作業をしている。
 
 仙千代が背後に立つと、振り向き、

 「仙様」

 と、笑みの浮かんだ、くりっとした目でこちらを見上げる。

 「何をしておる」

 仙千代の問いに清三郎は微笑む。

 「鎧櫃(よろいびつ)ですよ。
私を武士の子にしてくださった若殿の為に鎧櫃を……」

 「ああ、そうだった……」

 仙千代は納得した顔をしているが、
清三郎の手元には鎧櫃どころか、道具すらも無く、
清三郎はただ手指を動かしている。

 「鎧櫃……透明なのだな」

 「透明などであるものですか。仙様には見えぬのですか?」

 「見えぬ……」

 ふふっと清三郎は笑んで、

 「仙様にはお見せします。後ほど、きっと」

 清三郎は仙千代に背を向け、ふたたび無心に仕事を始める。
優美な面立ちに似合わぬ節くれだった逞しい指が、
そうした作業を好む清三郎の性分を表している。

 「清三郎、儂には見えぬ。(せい)には見えておるのか。
透明な箱を相手に、清は器用なのだな」

 初めて清三郎を「清」と呼んでいる。

 「この深く瑞々しい緑、若殿に似合いましょう。
ひと塗りひと塗り、心を込めて塗っておるのです。
若殿にお捧げする為……
緑は生命の息吹……お捧げするのです、若殿に……」

 その後はもう、仙千代が何を問い掛けようと、
清三郎は「透明な鎧櫃」に夢中となって、
答は返らなかった。

 紫陽花の苑は、岐阜の城の古井戸辺りのようだった。

 斯様に多く、咲いていたのか……
いや、そんな筈はない、なれど、ここは確かにあの場所……

 「清、想いを告げたのか?若殿に」

 見下ろしている清三郎の後ろ姿の耳朶が、
ふわっと染まった。

 仙千代は妬くでもなく、受け容れて、
静穏な表情でいる。

 清三郎の顔は見えていないのに、
幸福そうに微笑んでいることが何故なのか、知れる。

 若殿に大切にされ、武門の家柄の子となって、
清三郎、良かったな、
その心根を若殿は愛しておられる……

 仙千代は一切の妬心を抱かず、清三郎の幸せを祝福している。

 気付くと独りになっていた。清三郎の姿が無い。

 「清!何処に居る。清、清!……」

 透明にしか見えていなかった緑の鎧櫃がぽつんとあって、
いつの間にか出来上がっている。

 ところが、清三郎が側面に描くと言っていた、
織田木瓜の家紋が入っていない。

 「清、出来ておらぬではないか。
紋を入れるのではないのか。入っておらぬではないか。
清!清三郎!……」

 叫んでも、戻ってこなかった。
いつしか清三郎は消えて、鎧櫃だけが残されていた。

 ……「仙千代、仙千代……」

 囁き声ながら、幾度も仙千代を呼ぶ声がして、
瞼を開けると目の前に竹丸の顔があった。

 「うなされていた。何やら清、清と繰り返して」

 「竹丸……」

 蒸し暑さの故だけでなく、寝汗をかいていた。
竹丸が手拭いで仙千代の額や頬の汗を拭った。

 竹丸が低い声で問うた。

 「夢に出てきたか。清三郎が」

 「岐阜の城で最近、少し話した。
武士になることを、とても喜んでいた……」

 「甲冑商の息子ゆえ、願いが叶ったということなのだな」

 「夢なのか……最後、儂だけになった。
清三郎は姿を消して……」

 竹丸は仙千代の半身を起こし、
着物をさっと脱がせると、背中を拭いた。

 仙千代は為されるがまま、寝惚け半分で、
夢の中の清三郎を思い出していた。

 鎧櫃は透明だったのに、終いには清三郎が消え去って、
鎧櫃だけ残されていた……緑の鎧櫃……生命の息吹……

 儚くも鬱々とした夢だと仙千代は思い、(かぶり)を振った。

 「疲れておるのだ、きっと。
さあ、汗も引いた。横になって今一度、休め」

 竹丸が仙千代の着物を着せた。

 仙千代は暗闇の中、竹丸に抱き着いた。

 「竹、恐い。何が恐いか分からぬが、恐い」

 「儂とて恐い。
一揆勢に囲まれて白兵戦となったあの恐怖は忘れられぬ」

 「違う。そうじゃない。清が夢の中から消えた」

 「夢だからじゃ、それは」

 仙千代は竹丸の胸にしがみつき、

 「清が、清が……」

 と繰り返し、いつしか声を張り上げていた。

 「清が何処かへ!」

 「殿が起きられる、声を下げよ」

 「でも、清三郎が、清が!」

 「夢じゃ、それは夢なのだ」

 嗚咽を始めた仙千代を竹丸が抱き締めた。

 「左様な夢は逆夢じゃ、大丈夫、逆夢じゃ」

 「清は手柄を立てる。手柄を立てて共に岐阜へ帰る。
そうなのか?」

 「その通りだ。逆夢だ。
夢を憂いて寝不足になれば、
仙こそ、明日には浄土の蓮の上に座すことになる。
さあ、もう休め。騒いで殿をお起こしてはならぬ」

 竹丸に抱かれていた仙千代は、
そっと横にされ、子をあやすかのように肩を撫でられ、
その感触に浸っているうち、
やがてふたたび眠りに落ちた。

 翌朝、夢を覚えていた仙千代は、

 いくら清三郎を羨ましく思っても、
あのような夢を見る儂は外道じゃ、道を外れた悪人じゃ……

 と思い、後味が悪く、次に清三郎と会ったなら、
詫びることもおかしいのだが、
何やら上手く謝る方便は無いか、考えたりした。

 


 





 
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