第136話 小木江城 養父

文字数 1,455文字

 信長が仙千代の枕元へ戻ると、
万見家当主は信忠が陣としている二間城へ帰ると告げた。

 「何を馬鹿げた!
息子が大手柄をたて、刀傷を負い、
熱を出して意識を失っているというに務めに戻ると申すか」

 他の者ならこのような論法に決してならない信長だが、
仙千代の父親、いや、仙千代となれば話は別で、
危篤ともいえる重体の一人息子を置き去りにするその振舞は、
声を荒げないではいられなかった。

 「総大将様の御蔭をもちまして、
息子はこれ以上はない医術を施していただいております。
無為に枕元に侍っておっては却って息子は気が急いて、
治るものも治りませぬ。
僭越ながらここは総大将様の思し召しに縋り、
私は私の任を全うしたく存じます」

 「それで良いのか。仙千代の熱は未だ下がらぬ。
まだ安心はできぬ容態なのだぞ」

 「我ら父子は心で繋がっております」

 ふと仙千代に目を遣ると、
頬にひとすじの涙があった。
 信長は誰よりも前に出て、

 「仙が……儂の仙が泣いておる。仙千代、如何した。
仙千代、痛むのか?可哀想に」

 と、仙千代の涙を拭った。

 仙千代が受けた刀傷は背後から斬り付けられたもので、
右肩から斜め下の左腰に近い部分まで達する重傷だった。
幸い深さは左程でもなかったが、傷は背を縦断しており、
そこから毒が回ったか、
もしくは雨で濡れ、体力を奪われたのか、
三日間高熱が下がらないでいる。

 信長とて戦傷(いくさきず)は散々経験している。
特に同母弟(おとうと)、信行と家督を争い、
刃を交えた稲生(いのう)合戦では信長軍七百に対し、
相手は二千近い兵力で、
可成(よしなり)、佐久間信盛、丹羽長秀、前田利家ら共々、
最後は残り四十人となった時には、

 「弟が兄の命を奪わんとするに加担するは武士(もののふ)の恥ぞ!」

 という末期を覚悟した信長の大絶叫により、
当時は信行側の宿老職にあった柴田勝家を大将とする信行軍は、
士気が下がって陣を乱し、
信長はじめ四十名は、からがら、一命をとりとめた。
 だが、この激戦での傷は未だ痛むことがある。

 信長は仙千代が呻く姿を目にすれば、
その都度、古傷が疼いた。

 「仙が痛がっておる!竹、早う、医者を呼べ!」

 「ははっ!」

 竹丸が次の間の小姓に用向きを伝えると、
即刻、御典医、金瘡医、薬師が姿を見せた。

 患部には純白のさらしが巻かれてあって、
布を解くとべったりと熱冷ましの薬草が塗られてある。
傷はぱっくりと口を開け、まったく塞がっていない。

 「殿、痛みは減ってきておりまする……
不覚にも涙を流し、申し訳ございませぬ……
父の言葉が嬉しく、涙が……」

 信長は、

 「左様か。痛みは減じてきておるのだな。
良かった。ほんに良かった。幸い、血は止まった。
あとは熱が心配じゃ。熱さえ下がれば、熱さえ……」

 と言いつつ、仙千代の手を握り、涙を浮かべた。

 万見家当主は仙千代の養父に違いはないが、
仙千代を愛おしむ思いで負けるつもりはなかった。

 「斯様に言葉を発するようになっただけでも、
まことに光明。仙千代、快癒の日は近い。
必ず仙千代は治る!儂が治してやる!心配要らぬ!」

 思わず大きな声が出た。
仙千代の養父も竹丸も信長の挙動に圧倒されてか、
二人は信長から押し退けられるように距離を置いている。

 「確かにこの小木江と万見が詰める二間は、
一里かそこらで程近い。家のある鯏浦(うぐいうら)も同様じゃ。
何かあれば直ちに駆け付ければ良い。うむ」

 「はっ、御言葉、有り難さの極みに存じます」

 仙千代の養父は少し前に出て、
今一度、息子の手を握った。
 先ほど、少々口をきいただけで力を使い果たしたものか、
仙千代は目を閉じ、ただ、握られている。




 
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