第172話 河内長島平定戦 朱染めの房紐(2)

文字数 878文字

 苦渋の源、あれが頼旦!
用意の良いことに死に装束か!……

 信長の血のように赤い、朱染めの房紐(ふさひも)の采配が、
宙を舞った。

 陣鐘が激しく打ち鳴らされ、太鼓が響き、
法螺貝が吹かれる。
 空気が一気に変わった。

 騒擾(そうじょう)を惹起する鐘の音はカンカンカンと鳴り、
ドンドンドンという太鼓は地響きを起こし、
獣の雄叫びにも似た法螺の咆哮は、
戦場(いくさば)の残忍残虐を麻痺させる。
 
 「容赦無用!撃ち、放ち、斬りかかれ!」

 朗々とさえして、明快極まる信長の大音声(だいおんじょう)は、
もしや頼旦に、達していたかもしれなかった。
 
 信長本隊の丹羽長秀、佐々成政、前田利家、
織田信広、飯尾尚清(ひさきよ)、羽柴秀長、
平手久秀、浅井政澄ら、
四万の軍に警鐘が伝わるのを待たず、合撃は始まった。

 長島城の大手門は一揆衆の行列が船に向かっている。
 三の丸の出入り口には太鼓門、太鼓門横(やぐら)が建ち、
二の丸には搦手門と二重櫓、東南隅には巽櫓が構えている。
本丸には桝形を備えた黒門が繋がっていた。
 秀政を使者に出した時、一揆衆の撤退に際し、
大手門以外の使用は禁じてあって、どの門も櫓も、
敵兵は見当たらない。
 殲滅は順当に仕上がりつつあった。

 大木も日根野も、抗う力を失ったか!
何故、出てこない!何故、抵抗せぬ!
何処で何をしている!顔を見せよ、この儂に!……

 信長は高揚していた。
殺戮を好むわけではない。
 しかし、知恵を振り絞り切り、
たった一つの命のやり取りの果てに得られる勝利は、
どのような美酒にも勝る快楽を信長に与えた。
 それは前のめりの歓喜というより、
尊く貴重な唯一のものを喪わず済んだという、
本能に起因する強烈な悦びだった。

 船上に、子が、女が、男が、倒れ、傷付き、
命の果てた身が累々と重なる。
 
 銃弾、弓矢を浴びた一揆衆から悲鳴が上がろうとも、
戦鳴り物(いくさなりもの)と狙撃の音に塗れた耳には届かない。
 無抵抗の一揆衆が次々と弾を浴び、矢を打たれ、
ある集団が蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑えば、
織田勢が追撃し、斬り捨てる。

 八咫鏡(やたのかがみ)を有する神宮、
草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉ずる熱田の宮、
(いにしえ)の両宮を擁する伊勢の聖なる海は、
人の世の阿鼻叫喚の地獄図をただ悠久に見守っていた。



 
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