第106話 殿名の陣(1)

文字数 1,355文字

 織田軍十二万の攻撃により、
拠点の長島城、日根野弘就(ひねのひろなり)がこもる篠原(しのばせ)城、
一揆衆の精神的な柱である願証寺など、一揆軍は拠点が寡少となった。

 野営地は伊藤実信の屋敷地と接近していて、
大将達は信長以下、希望者は、多勢が入れ代わり立ち代わり、
実信邸で世話を受けた。

 四万の信長本隊は早尾口から出陣し、
小木江(こきえ)城を制圧すると、本陣とし、
前ケ須、海老江島、いくいら島を焼き払いながら進軍し、
明日以降の攻撃に備え、この日は殿名で信忠軍と合流した。

 仙千代が見た一揆勢の中には妻子を伴った者が多く居て、
一家で逃げ落ちる者も居れば全員で命を落とす場面もあった。
 総大将の信長に弓や鉄砲が飛んでくることはなかったが、
信長が指揮を執るその先には、
酸鼻を極める光景があるのだろうと、想像はついた。
 事実、仙千代は、この殿名に渡るまで、
敵味方、老若男女の別なく、数多の死体、怪我人を見た。
 中には赤ん坊も居た。母が死に、子も死にかけている。
何でもない時ならば、拾って保護し、
命が長らえるよう、いくらでも手助けしてやりたいが、
今はこちらが害を加えた側で、助けるも助けないも、
それ以前の話なのだった。

 段々に感覚が麻痺して、
死体や負傷者に気持ちが揺らぐことがなくなってくる。
でなければ、目を開いていられなかった。
そして、目を閉じたなら、
次は自分が命を落とす番になるのだと、仙千代は心を凍らせた。

 実信の屋敷は大将や付き人達で溢れていた。
通常、湯殿にごった返すような入り方はしないが、
作戦が順調だったので諸将達が一時に参集していた。

 信長の命で、身分の軽重に関わらず、
やって来た者から身体を浄め、
食事の相伴に預かるようにということだったので、
信長が湯殿に現われた時、
佐々成政、蒲生氏郷、平手久秀らの姿が先にあった。

 佐々成政は近江源氏の庶流の出で、
尾張の守護、斯波氏に仕えていたが、
信長が尾張統一を果たす過程で織田家の臣下となって、
今は正室に、京都所司代、古参の村井貞勝の娘を迎えている。
 蒲生氏郷は人質として織田家に預けられていたところ、
聡明さを信長が気に入り、烏帽子親になった上、
娘を正室に付け、一年で家に帰したという寵臣だった。
 平手久秀は、
若き日の信長の行状に苦しんで諫死を遂げた傳役(もり)
平手政秀の嫡男で、末弟は三方ヶ原の戦いで討死しており、
信長が常に目をかけていて、
妹は信長の異母弟(おとうと)、長益に嫁いでいる。
 仙千代も信長に侍るようになって三年目ともなると、
顔を見ただけで瞬時に武将達の背景、関係が頭に浮かんだ。

 作戦の順調な仕上がりと、
偶さか(たまさか)気に入りばかりの湯殿での顔触れに、
信長の機嫌は上がった。

 湯殿を出た信長が竹丸に髪を整えられ、
仙千代が身体を拭いていると、
信忠と三郎、清三郎が入ってきた。

 信忠は夕餉を共にしようと信長に言われ、

 「了解仕りました」

 と手短に答え、湯気の立つ方向へ消えた。
 
 いつしか、三郎も清三郎も、表情が引き締まり、
ぐっと大人になったように見受けられた。

 背丈が信忠に近付きつつあった三郎は、
肉を落とし精悍な面立ちとなり、眼に力が加わって、
いかにも若殿の近侍といった風情になっている。
 仙千代と同じく数えの十五の清三郎も、
元来が武芸を好む質であったせいもあり、
表情の凛々しさは一端(いっぱし)の若武者の雰囲気を醸し始めていた。




 
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