第346話 加藤図書之介順盛

文字数 1,531文字

 天正三年五月十四日、
三河に侵攻している武田勝頼を攻める為、
織田軍が徳川家康の待つ岡崎へ出立する朝、
熱田の羽城(はじょ)に邸宅を構えている、
加藤図書之介順盛(ずしょのすけよりもり)がやって来た。

 加藤家は長く熱田の地侍として、
精進川の東南の岸に勢力を持していた。
 家康が竹千代と呼ばれた六歳の折、
信長の父 信秀は調略によって竹千代を手に入れ、
その際、
信秀の命により竹千代を羽城の自邸に住まわせ、
世話をしたのが図書之介だった。

 十五年前の桶狭間合戦でも、
熱田神宮で信長が必勝祈願した時、
図書之介は呼ばれ、出陣の酒の酌をした。

 当時、信長は図書之介に、民百姓を集め、
皆が何本もの竹竿を持って合流するように命じた。
今川に対し、多勢に寡勢の織田軍の人数を、
少しでも多く見せようという計略だった。
 ところが図書之介が桶狭間に着くと、
既に勝負はついていて、義元は討死していた。

 その時、信長は二十六、図書之介は五十が近く、
二男の加藤弥三郎が信長の小姓となっていた。
 弥三郎は、
竹丸の叔父である長谷川橋介ら他四人と共に、
信長の最側近として仕え、
その後、徳川家に移り、禄を得ていたが、
三年前の三方ヶ原の戦いで、
橋介ら、生涯を一に過ごした小姓仲間と、
武田を相手に一番合戦を繰り広げ、
比類なく勇猛に戦った末、
全員が戦場の露と消えた。

 三方ヶ原で信玄に、
息子の命を奪われた図書之介は老境の身ながら、
この朝、武具甲冑を身に着け、
織田軍が集結している熱田の宝前に姿を現した。

 信長は図書之介を認めると、
桶狭間合戦を彷彿とさせると言って喜び、
やはりこの時も酌をさせた。

 三方ヶ原で戦死した弥三郎は二男でありながら、
加藤家の長子が他界していた為に、
その時の図書之介にとっては跡継ぎだった。
 弥三郎の小姓仲間で、
信長の寵愛が深かった岩室長門守(ながとのかみ)重休が、
先に戦死したので弥三郎は朋輩の家名を残す為、
岩室家の名目上の婿となり、
岩室家を助けてもいた。
 その弥三郎が死に、
長門守重休という名も消えてしまった。

 病を得た身であるのか、
いくらか手の震える図書之介の盃を受けた信長は、
いつにも増して眼の光に厳しさがあった。
 
 信長は杯を空にすると、図書之介の鎧姿に、

 「図書之介!
弥三郎も重休も今朝はここに居る(おる)
図書之介を確と(しかと)守護しておるぞ!」

 老体の図書之介にとって、
甲冑はけして軽いものではなかった。
 しかし図書之介は、

 「はっ!上様と徳川殿が力を合わせ、
我が息子の仇を取って下さる栄誉にあずかり、
これ以上の手向けはございませぬ!
弥三郎の弟達共々、
この老体も三河の地に参じ奉りましてございます!」

 と、必死の声を張り上げた。

 「見事、殊勝な心掛け!」

 信長は応え、弓を持ち、軍扇を開いた。

 総大将の信長が、

 「えいえい!」

 と、(とき)の声を上げると、全軍が、

 「オー!」

 と呼応し、
神の武力の象徴である草薙の御剣(くさなぎのみつるぎ)を御神体とした
熱田の森に、兵達の雄叫びが轟いた。

 総大将の信長が土器(かわらけ)を割り、
馬に左から乗り込んで、
副将である信忠が続いた。

 緑濃い五月の道を、織田軍は東に進んだ。
弥三郎の弟にあたる図書之介の息子達は、
信忠に付けられていた。

 途中、
鳴海城の佐久間信盛が合流する辺りで、
信忠の馬廻りを務める図書之介の子を、
信長は連れてこさせた。

 「親父殿とはここで別れだ。
熱田に戻り、
戦神に祈りつつ吉報を待てと伝えよ」

 「恐れながら!
父は武田勢と一戦交えることを、
長らく願っておりました!
今日こそ待望の日であると、父は、」

 「ならぬ!図書之介に申せ!
勝利の美酒を用意して待てと!熱田でな!」

 と、言った。

 栄えある馬廻りの若者は、

 「有り難き御言葉!
上様の御厚情、痛み入りましてございます!」

 と告げると、
父である老将のもとへ去った。

 

 

 

 

 

 

 


 




 
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