第97話 小木江城(2)

文字数 1,252文字

 「勘九郎も息苦しいか。数多の縁戚や儂の乳兄弟、
また、丹波のような代を継いでの歴戦の士に囲まれて」

 信長自身の十代半ばを思い出し、少し苦く笑った。
何処で何をしようとも、
尾張の虎と呼ばれた父、信秀と比較される日々だった。

 勘九郎という通名は、親族の間では未だ使われていた。

 「万見殿にも感謝をせねば。
この一帯は一雨来れば地形が変わる。去年と今年では大違い。
しかし、変わらぬ箇所もある。
父君は最新の模様を描き、
他にも河川や沼地の水深まで記し、送ってくれた。
あの地勢図は役に立ったぞ。
父君は前の長島戦の後、調査をなさっておいでだったのだな」

 仙千代と血の繋がりはない万見家当主だが、
共に暮らせば似るものか、
清廉朴直な雰囲気が仙千代そっくりだった。
 そして信長自身、ふと気付くと、仙千代の父に対しては、
自然、丁寧語になっている。
年齢は信長の方が多く、
地位に至っては主君と家臣でありながら、
仙千代への愛情がそうさせていた。

 「お役に立ちましたなら養父(ちち)も喜びましょう。
あのような脚となってしまった今、戦に出ることが叶わず、
せめて万分の一でも御恩返しをと、
下男の若い二人を助手にして、
何やらこつこつやっておったようでございます」

 「万分の一どころではない、
幾つも模写させ、部将や軍師に配布したほどじゃ」

 仙千代が微笑むと控え目な笑窪が浮かび、
場に明るさと温か味をもたらして、
ここが戦の陣であることを一瞬、忘れるようだった。
 
 褒められたのは仙千代の父であるのに、
二夏を万見家で過ごし、幼い頃から交流があるせいか、
竹丸も心なしか誇らしげで、
臣下がこのように友愛の絆で結ばれた姿は、
いかにも心地よいものだと信長は思った。

 この時、敵兵の残党でも現れたのか、
はたまた、民草の姿に化けた一揆勢が紛れ込んだか、
鉄砲が放たれる音がして、信長は現実に帰った。

 こちらが総勢十二万なら、敵も十万だった。
しかも女子供が混ざっている。
これが厄介で、僅かでも同情の色を見せれば、
むしろ何をしてくるか分かったものではなかった。

 「繰り返し言うが、女や子供を見掛けても、
けして見逃すでない。良いな?
背を見せれば斬って掛かってくることは間違いない。
子供とて、逃せば草葉の陰から石を投げてくる。
また、総大将の小姓の首級を挙げたとなれば、
敵は勢いづく。
我が身を我が身だけのものと努々(ゆめゆめ)思ってはならぬ。
強く肝に銘じよ」

 「はい!」

 「はい!」

 陣の中であれば安全かといえばそのようなことはない。
元々、小木江は尾張の地であって、
織田家の牙城のひとつ、津島と隣接していた。
今回奪われた地を奪還はしたものの、
尾張、美濃、河内長島が入り組んで、地形が混然となっている。
敵が防衛線を突破して、見張りの兵の目を盗み、
夜陰に紛れて何処から侵入しても不思議ではない。

 注意を与えはしたものの、聡明な二人のことで、
信長は心配らしい心配をしていなかった。
 総大将に侍る小姓が怪我を負ったり討ち死にすることは、
勝ち戦となる公算の強い今回、まず有り得なかった。



 

 

 


 

 


 


 

 

 



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