第19話 紅の八塩(1)

文字数 2,149文字

 仙千代が岐阜へやって来て、一年が経とうとしていた。
儀長城の謁見の間で「岐阜の殿様」に拝謁が叶うということで、
竹丸の後ろで身を震わせていた自分が、
今は信長と二人きりの時を過ごす。

 あの日が遥か遠くになってしまった、たった一年で……
来年、再来年は、何処でどうしているのか……

 空にはまだ微かに夕陽の名残りがあったが、
閨房には燭台の炎が揺れていた。

 仙千代が作法に則り、部屋へ入ると、
信長の声の調子がいつにも増して優しかった。

 「具合はどうじゃ?」

 「はい。先ほどは御無礼仕りましてございます。
湯殿でしっかり温まり、今は気分が良うございます」

 「うむ。良かった」

 ここで信長が仙千代をあらためて見直し、

 「着物が肌の色艶を引き立てて、よく似合う」

 と、褒めた。

 仙千代は信長が贈ってくれた真紅(しんく)の絹の小袖を着ていた。
紅の八塩(やしお)と呼ばれる色で、八塩は八入(やしお)とも書き、
混ざり気のない紅花の染め汁に何度も浸すという意味で、
鮮やかな濃い紅色は非常に贅沢なものだということだった。

 高価なものを頂戴し、有り難いは有り難いのだが、
ここまで赤いと勤めのどの場面で着れば良いのか困るばかりで、
結局、このような時に着るということになる。
様々な客人と接する小姓が、
接待相手より高いものを着るわけにはいかない。
しかも真紅は深みがあるが、やはり華やかに過ぎる。
 妹にでも着せてやったら喜ぶだろうと、仙千代は可笑しく思う。
信長は万事、派手好みだった。

 ここからは、だいたい、いつも同じで、
信長が、

 「近う」

 と言い、仙千代が、

 「ははっ」

 と畏まって膝行(しっこう)し、
少し間が空いているのを信長が、

 「もっと近う」

 と続け、結局、最後は手を伸ばし、抱き寄せる。

 「まこと、具合は良いのか?もう」

 「はい」

 信長の胡坐座(あぐらざ)の空いた隙間に尻を乗せ、
不安定なので、両の肩に手を回し、捕まることになる。
 日ごろ、

 「畏れながら」

 と断りを入れなければ触れてはならない君主の身体に、
今は何の制限もなく触れることが許されていて、
口を吸われて舌を搦め取られた時に少し絡め返すだけで、
想像以上の喜ばれ方をする。

 畏怖する思いに根底で変わりはないが、
女子供まで殲滅させた、
比叡山焼き討ちという信長の恐ろしい所業を仙千代は、
時に最近、忘れていることがある。
 しかし、忘れている自分に気付くと、仙千代は、
気を引き締め直した。

 どんなに優しくしていただいても、
芯の芯で殿は恐ろしい御方、
だからこそ、真心でお尽くし申し上げなければ……

 「仙千代。時に清三郎は、ちと、仙に似ておるな」

 「えっ?」

 不意打ちを食らったような気になって、
不躾な返し方をしてしまった。
 しかし、仙千代の無防備な反応は、信長を喜ばせた。

 「そうじゃ、そういう仙千代が見たい。
共に過ごす時は堅苦しくならず、一対一の男と男じゃ」

 声変わりすらしていない元服前の自分が、
君主にそのように言われても、頷きはできない。

 「はい。畏れ入ります」

 「またそのような。まあ、良い。話題を戻そう。
若殿の新しい御小姓、ふとした時に仙に似ておるような」

 「左様なことは……」

 信長は至近距離から仙千代を見詰め、
唇に指を這わせた。

 「もちろん、仙千代の方がずっと良い。
比べ物にならぬ。
しかし若殿も今になり、儂を羨ましく思うようになったか」

 「羨ましく?……」

 信長の手は襟の内へと移り、肩、腕を摩り(さすり)
眼差しは仙千代をじっと見て、外さない。

 「三郎が良いなどと言っておられたが、満月は満月。
心の通い合いも結構だが、清三郎とやらを知った時、
若殿も目覚められたのやもしれぬな」

 「目覚めて?……」

 「性の目覚めじゃ。
生真面目に過ぎると思っていた若殿も、
今では立派な成人男子。
色々見知って、三郎では飽き足らず思われたのか」

 仙千代は身を硬くして、無言でいた。
信長の愛撫は続く。

 「それにしても、
仙に似た面立ちを見せるあの者を連れてくるとは、
やはり父と子は変に似るのか。可笑しなものじゃ」

 室内は瀬戸焼の火鉢で炭が赤々と燃えていて、
暖かだった。

 するりと小袖を脱がせると、
露わになった仙千代の胸の先端を信長が弄ぶ。

 「くっ、くすぐったい」

 身を捩って(よじって)逃げようとすると、

 「その顔が可愛らしい」

 と、深く口を吸われた。

 若殿のことは忘れよう、
これほどに殿が良くしてくれるのだから、
もう、若殿のことは……

 清三郎に仙千代の面影があると言われた時は、
心の臓がひゅうっと音をたてて縮み、身が凍った。
 万が一にも、信重との間であったことを知られてはならない。

 それに、あいつと似てなどいるものか、
儂は儂じゃ、誰にも似てなどいない!……

 と妙な意地で思う一方、

 もし本当に似ているのだとしたら、
若殿の好みの御顔はあの者や儂なのか……

 と、不思議な気がした。

 儂を嫌って、蔑まれたはずの若殿が、
御顔の好みだけは変わらないのか……

 仙千代の幼い頭でいくら考えても、
もう何が何だか、よく分からなかった。
 分かっているのは、今では信重に嫌悪されていること、
清三郎とやらがやっては来たが、
まだ次々と、新たな小姓がやって来て、
徐々に小姓達も信重の選びで顔触れが入れ替わっていくであろうこと、
そして、最も確かなことは、
仙千代が信重を慕い続けていることだった。
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