第270話 氏真 来訪(9)

文字数 1,148文字

 今川義元、討死後、
降伏を拒み、
頑として抵抗を続けていた鳴海城主の岡部元信に、
攻めあぐねていた織田軍が使者を送ると、
堅城の主は義元の首と引き換えに開城を申し出た。
 
 尾張を軽く蹴散らして、
何なら尚も西へ進もうという駿河の太守の大軍勢を追い払い、
大将首を上げた信長は歓喜の極みにあって、
首級実検の後、
義元の首を清須で晒して(さらして)いたが、
元信の忠勇に感じ入り、丁重に箱に納め、
使者に渡した。
 亡き主君の首を取り戻す為、
城に立て籠もり、文字通り孤軍奮闘していた元信だった。
 義元の首は、
元信が寄越した輿に乗せられ、東へ向かった。
一行と合流し、亡君の首を検めた(あらためた)元信は、
戦功無くして敗走するのを良しとせず、
帰り際には、
信長に恭順の意を示していた刈谷城を攻め落とし、
百人の兵の命を奪い、勝利を得て弔い合戦とした。
 
 その際、氏真は、

 「忠功比類無し」

 と元信を称えたという。

 そんな忠義の烈臣、岡部元信が、
今は武田の将として、
かつての主君、今川氏真と刃を交える……
それもこれも、
この今川殿が一重に(ひとえに)情けないからだ……

 桶狭間で勝利を収めた若き信長の記憶にも、
岡部元信は鮮やかに刻み付けられているのだと、
仙千代は思った。
 難攻で名を馳せる高天神城を落とし、
武田家の歴史に於いて領地を目下、
最大にしている武田勝頼との合戦を控え、
武田の直臣ではなく、
来歴を言えば外様に過ぎない元信を信長が口にする。

 上様は今川殿よりも岡部殿を買っておられる……

 氏真が迷走の果て、右往左往する中で、
支え続けるも力尽き、
放り出されるような形となって主家を離れ、
武田に降りて、
今は勝頼の懐刀の武将となった元信に、
何の戦績もない我が身であると知りつつも、
仙千代は乱世に生きる武士(もののふ)の気概と哀切を覚えた。

 上様の桶狭間での勝利を契機に、
徳川様は三河へ戻り、
義元公から授かった元康という偏諱(へんき)を捨てられ、
家康と改名なさった、
しかし岡部殿は、
かつての主君から賜った元信という名のままで、
今も……

 いつしか信長の表情が険しくなっていた。

 「遠からず、
高天神の城を枕にした岡部の首を見ることになろう。
楽しみだ」

 「ははっ」

 信長流の岡部元信に対する称賛を、
果たして氏真が解したか否か、
仙千代には分からなかった。
 氏真は歌を能く(よく)詠む文事に長けた才人だと聞く。
しかし信長が元信に寄せる思いを感知する(しょう)を、
有しているのかどうか、
甚だ心もとないものがあると仙千代は観た。

 そろそろ広間では、
本日の茶頭(さどう)の依頼を受けた、
津田宗及(そうぎゅう)の支度が為されているはずだった。

 「御無礼仕ります。
茶席の用意が整いましてございます」

 よく通る竹丸の声が爽やかに響いた。

 信長が立ち、一同が従った。
 
 氏真の目が、
毛利良勝の指を失った左手へ注がれたのを、
仙千代は見逃さなかった。

 
 
 


 











 






 
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