第387話 志多羅の戦い(6)世迷言

文字数 1,250文字

 今でこそ、
天下人としての振舞をする信長だが、
最も恐れ、
煩わしく見ていた相手が武田信玄だった。
 甲斐源氏嫡流という、
武家社会に於いて強烈な求心力を持つ名家にして、
強者を数多抱える武田氏は、
版図(はんと)が小さく、
信長が鉄砲を積極導入するまでは、
兵が弱いとされた尾張にとって、
長年、強大極まる圧迫だった。
 
 信長は信玄との正面衝突を避けるべく、
家督を継いだ四郎勝頼に姪を嫁がせ、
信忠と松姫の婚姻を決め、
表面上、友好姿勢を取ることで、
信玄からの攻撃を防いだ。
 ただ信玄は、
石山本願寺法主 顕如と、
閨閥で繋がっていることからも明らかなように、
従来からの仏教勢力と親和性を持っていて、
酒池肉林を欲しいがままにし、
治外法権的に、
兵力まで備える比叡山延暦寺を信長が討伐した際は、

 「天魔の変化」

 と強く非難し、
延暦寺を甲斐に移して再興しようと試みて、
座主であり、
帝の子である覚恕(かくじょ)を匿い、
信玄自身、
権僧正という高僧の地位を得て、
信長への不信不快を隠さなかった。
 
 やがて信玄は、
足利義昭の信長成敗令に呼応して、
信長との手切れを決めると、
信長の同盟者である家康を狙って西上作戦を開始、
三方ヶ原で大勝利を収めた。
 
 だが、人の命の儚さか、
甲斐で勝利の美酒に酔うはずが、
帰路に激しく喀血し、
三河の街道で突然の死を迎えた。

 ……家康の陣から信長は、
未だ動いていなかった。
 信長の、経済を重視し、
豊かな世を実現させるという意思を込めた、
「永楽通宝」の御指物と、
家康の、現世の穢れを厭い、
喜びに満ちた浄土を求めるという意の、
厭離穢土(えんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」の旗が、
朝の光を受けた霧の合間に、
並んでたなびいている。

 「亡き信玄なれば、
この日この時、
如何なる選択をするのでしょう。
いや、信玄存命なれば、
斯様な形で武田軍と接近する事態がまず、
有り得なかったやもしれませぬ」

 信雄は半ば独白で呟きを続けた。

 「信玄の死……
我らにとっては天恵でございました。
よもや、あの期に急死するとは。
長年、胃の腑が悪く、
薬を手離せなせずと聞き及びますが、
それにつけても、
徳川の城や砦を僅か数日で次々と落とし、
壊滅的被害を与えた大勝利の帰路、
激しく喀血し、命を落とすとは……」

 信雄は、
穏便ならざる響きを滲ませていた。
 それを受け、
信忠に侍る三郎と勝丸が、
二人同時、
身を包む空気をびりっと変えた。
 信玄が良からぬ薬を投薬されていたのではないか、
という疑念を、
信雄は言葉の裏に潜ませていた。
 それをこの今、
口にして良いのかという憂慮を、
三郎、勝丸という信忠の近侍達は、
醸して見せたのだった。

 信雄の独演は終わらない。

 「勝頼に嫁した亡き叔母上の御付け人は、
織田家の連枝衆にて、
以来、長く武田家に住まわって、
武田の家人とおそらく懇意にて、
親しき中に、
近侍や薬師が居ぬとも限らず……」

 信忠以下、
誰もが無言で信雄に返さずいるので、
信雄はそこでハッとして、

 「言い過ぎました。
この後は口をもう開けませぬ」

 と誰も何も言わぬのに、
一人、自ら、塩らしくした。

 




 

 


 


 




 
 


 

 



 


 

 
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