第269話 氏真 来訪(8)

文字数 2,094文字

 永禄三年五月十九日。
 ここより十五年前、
桶狭間で今川義元討死の報が伝わると、
今川軍は総崩れとなり、撤退した。
 そのような情勢下、
鳴海(なるみ)城の岡部元信だけは抵抗を続けていた。

 数多の合戦を重ねてこられた上様なれど、
岡部殿の名前は忘れ難いに違いない、
岡部元信……

 信長と氏真が交わすその武将の名を、
仙千代も胸中で唱和した。

 鳴海城をめぐっては、
足利配下の武将による築城に始まって、
戦国期に入り、
信長の父 織田信秀が奪取すると、
重用していた山口乗継を城に入れたが、
信秀の死後、
家督争いが予想される織田家を見限って、
乗継は城ごと今川に寝返るという歴史があった。
 
 城を盗られ、裏切りに怒りを滾らせた信長は、
鳴海城を攻めたが落とせず、調略戦に切り替えた。
 これにより乗継父子は駿河へ呼び寄せられ、
義元の命により切腹に追い込まれた。
 乗継への復讐は果たした信長だったが、
鳴海城を取り戻すことは叶わず、
義元は外様の山口一族を排除して、
ここで今川家譜代の岡部元信を城主に据えた。
 以降、鳴海城は今川家直轄の重要拠点となり、
これに対抗すべく信長は、その周囲に、
丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いていった。

 氏真来訪に備え、堀秀政が願い出て、
古参の馬廻り、福富秀勝から、
竹丸と三人、講述を受けた際、仙千代は訊いた。

 「調略をもって山口父子を切腹に追い込んだというのは、
どのようなことなのですか」

 仙千代、竹丸共に、父は織田家の家臣だが、
全合戦の裏事情を具に(つぶさに)教えられているわけではない。
幼くして小姓に取り立てられ、
家で習ったことは武家の男子としての基本的なことに、
ほぼ限られていた。
それ以外は城中の目上の者から教わっていくことになる。

 「興味があるか」

 勝ち戦の華やかな話は確かに血沸き肉躍る。
しかしここは英雄譚や武勇の物語を聞く場ではなかった。

 「久太郎もこの調略戦は知らぬか」

 尋ねられた秀政が、

 「詳細は存じませぬ故、是非にも」

 「うむ」

 頷いた(うなづいた)秀勝に全員、正対している。

 「先君 信秀公が没すると、
わずか一月(ひとつき)で山口乗継は今川へ寝返った。
確かに我が殿は独特の御振る舞いが少なからず、
織田家中が跡目争いで揺れることは目に見えていた。
しかし、なればこそ、
御嫡男であられる我らの殿をお支えすべきが臣下というもの。
しかも鳴海の城は今川に対する最前線。
大殿が山口に多大な信を置き、与えられた城。
殿は那古野城を八百の手勢で出陣され、
鳴海の赤塚へ攻め込むと、
山口は倍の兵力で攻め寄せてきた。
矢戦の後、槍戦となり、乱戦が続いたものの、
余りの接近戦で首を取り合うこともなく戦は終わり、
我が方は三十騎が討死となった。
元はといえばたった一月前には味方同士の間柄。
最後、敵陣に逃げ込んだ馬は交換し合い、
生け捕りになった者も返されて、帰陣となった」

 秀政、竹丸、仙千代は目を輝かせた。

 「ふむ、意味が分かったようだな」

 満足気な秀勝に三人は顎を引き、笑みを返した。

 「我が殿、十八歳。
初めての大戦(おおいくさ)であった。
従えた八百の兵は殿が育てた精鋭部隊。
なれば、倍の兵力と互角に戦うことが出来、
接近戦にもなった。
この極端な接近戦により、
敵味方が互いの顔を目にすることになる。
大恩ある亡き大殿を裏切った山口軍は戦意に欠けた。
この日の戦は手打ちとなった為、
両軍の間で、
今川に対する再調略が交わされたのではないかと、
駿河の太守は疑った」

 「故に駿河へ呼ばれ、
山口父子は切腹に追い込まれたと」

 と、秀政が他の二人も思うことを口にした。

 「そういうことだ。
大殿が亡くなられ、
家督争いの火種が燃えて、しかも今川が力を増す中、
殿の御兄弟に与する(くみする)のであればまだしも、
よりにもよって今川家に城を携え臣従するとは、
恩を仇で返すも甚だしい。
山口乗継は息子共々、当然の報いを受けたのだ」

 「硬軟合わせて先を見通す御力が、
その御歳にして、
既に我が殿に備わっておられたと、
左様なことなのですね」

 と、感嘆した竹丸が言うと、
意外にも秀勝は意味ありげに笑った。

 「そこまでの成果を殿が期待されたかどうかは、
儂には分からん。
しかし、この時に黙って城を盗られ、
裏切りを放っておけば示しがつかぬ。
尾張統一などは夢のまた夢、
それ以前に、
家臣による暗殺の危険さえあった我が殿は、
打って出るしかなかったと言えなくもない。
だが、打って出て、どう転んでも損は無かった。
その計算はあられたはず。
最大の収穫は鳴海城の奪取だが、
それが叶わずとも今川に対しては二つの軍が接近戦で交わり、
勝敗はなく戦を終えたとなれば義元は疑心暗鬼になる。
山口が駆逐されれば、
殿の出陣は成果を上げたことになり、
不安に揺れる家中に於いて殿への求心力は増す。
何も損は無いのが赤塚の戦いだったというわけだ」

 仙千代は秀勝の講じるところを確と(しかと)胸に畳み入れ、
いずれ、調略や渉外に関わっていくであろう己のこととして、
記憶に刻んだ。

 結果として、
信秀の死後、鳴海城を失った信長は、
桶狭間の戦いを終えるまで、
城を取り戻すことはできなかった。
 山口乗継とその嫡男が今川義元の命により、
駿河で腹を切った後には、
賢将 岡部元信が城を守り通した。




 


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