第399話 志多羅の戦い(18)再臨

文字数 1,670文字

 梅雨の晴れ間の初夏の候、
陽はいつ沈むのかという明るさだった。

 酒井忠次(ただつぐ)、金森可近(ありちか)による、
夜明けの鳶ケ巣山(とびがすやま)砦急襲、
長篠城救援で口火を切った志多羅原の戦いは、
大団円を迎えていた。

 合戦場に勝頼の姿は既に無く、
残った武田兵は北の鳳来寺山を目指し、
敗走する。
 
 逃げ切れない部隊は、
馬印の吹き返しが仰向いて、
旗指物が右に左に揺れていた。
 槍の穂先も上向いて、
勢いを失っている。
 これは敵の臆心を表していて、
徹底して討ち取るべき弱兵だった。

 手本通りに織田と徳川の陣営は敗残兵を討伐し、
志多羅原で息をしているのは、
連合軍の兵のみとしようとしていた。

 信長から信忠、信雄(のぶかつ)を任された河尻秀隆は、
戦の最中、片時も二人から離れることなく、
戦況を(つぶさ)に教え導いた。

 血と屍の大地に、
操手を失った武田の鉄砲が、
夕刻間近の西の陽を浴び、
黒鉄(くろがね)の銃身を赤黒く晒していた。

 信忠が呟いた。

 「相当数の火縄の用意が、
敵軍もあったと見える」

 「弾薬(たまぐすり)を使い果たすのが、
存外、早うございましたな、敵方は」

 「うむ」

 「武田の鉄砲攻撃は断続的、
かつ、長くは持ち(こた)えられず。
梵鐘、貨幣まで、
弾の鋳造に用いたというのは、
おそらくその通りでありましょう。
甲斐の地は、
名馬を多く産出し、名将もまた然り。
しかし天に護られた上様の御武運、
積年の御努力の賜物の前には、
然しもの(さしもの)武田も為す術がなく、
武威を誇った強者(つわもの)が、
戦場の露と消え申した」

 無論、合戦は未だ終結していない。
信長は徹底した追討を命じており、
眼下のあちこちで、
疎ら(まばら)に交戦は続けられていた。

 信雄が兄を見上げ、小鼻を膨らませた。

 「勝頼の親類衆は一早く逃亡を決め、
あれまで見苦しい姿、
他に見たことがございませぬ」

 指揮を執る大将として、
実戦経験のある信忠とて、
過去に己の白刃を血で濡らしたことはなく、
戦績らしい戦績は未だ挙げてはいない。
 信雄に於いては尚更だった。
 それにしては、

 「他に見たことがない」

 と断言するあたり、
いかにも信雄で、
信忠はただ無言で受けた。

 信雄が続けた。

 「与兵衛尉(よひょうえ)
合戦はこれにて終わるのか。
主立った大将はもう見えぬ」

 原昌胤(まさたね)が、
鬼とも呼ばれた猛者 馬場信春に勝頼を預け、
百有余の騎兵と死の突撃に向かった時、
やはり武田軍中央を任されていた重臣の内藤昌豊は、
今回、徳川軍後詰に配されていた、
今川氏真(うじざね)を陣中見舞いした朝比奈泰勝と戦い、
首級を取られていた。
 伝え聞くところでは、
信玄から、

 「私心無きこと極まれり」

 と絶対の信頼を得て、
武田家の躍進に尽くし続けた功臣だった。

 「上様の厳しい討伐令が出ている以上、
馬場美濃守(みののかみ)ほどの武将が、
おめおめと逃亡を図るとは思われませぬ。
違いましょうか」

 信雄は怪訝そうにした。

 「ふうむ。というと?」

 「不肖、この与兵衛尉が馬場美濃守でありますれば、
大将を安全な場所までお送りし、
御背中を見届けた上、
志多羅に急ぎ、立ち戻りまする」

 「勝頼と共に、
甲斐へ帰れば良いではないか」

 物静かな秀隆が珍しく気色ばんだ。

 「内藤昌豊、山県(やまがた)昌景らが絶命した今、
馬場美濃守の胸中は、
武田三代に尽くした我が身が生きてこの世にあれば、
不器量この上無しと、
左様に決めておるのではございませぬか」

 信忠はじっと言葉を吞んでいた。

 信雄は秀隆に尚も問い掛けた。

 「生きて恩顧に報いる道も、
ないではないぞ」

 「此度この日の大勝利、
連合軍の士気の高さをもってすれば、
四郎勝頼に止め(とどめ)を刺すことは、
けして不能ではございませぬ。
美濃守(みののかみ)ほどの武人が、
()を許すでありましょうか。
山中を彷徨い、敵に落ちる勝頼を、
美濃守が末期の目に見るとは、
とうてい思われませぬ、
腹に一物、
必ずや抱いておるに違いありませぬ」

 「ううむ。如何にも。
美濃守なる名将なれば、
逃走の果て、主君共々討たれるなど、
左様な醜怪は、
およそ耐えられぬであろうからな」

 と腕組をし、
秀隆の言を信雄なりに咀嚼した。

 「与兵のお陰で、
本日は、まこと、良い学びを得た」

 と信雄が言うが早いか、
馬場信春が志多羅原に寡少の兵を引き連れて、
重来(ちょうらい)した。




 





 




 

 


 

 

 

 
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