第281話 勝丸との夜

文字数 1,618文字

 「もう卯月になるのですね」

 勝丸が火照りをしずめるように信忠の胸に頬をあて、
呟く(つぶやく)ように言った。

 京の桜は岐阜より早いのだろうか……

 勝丸の背を夜着の上から撫で摩り(さすり)
信忠もまた、先程までの熱を冷まそうとした。

 「勝は美濃の生まれ。
そういえば互いに未だ、京へ行ったことがないな」

 「いつか参りとうございます」

 「上洛して何をする」

 「若殿の御傍に居ります」

 「今と変わらぬではないか」

 「若殿が居られぬ京なら、
行きたくも見たくもございません」

 睦言への返礼で、信忠は勝丸を抱き寄せた。

 昨日、そろそろ夕餉の時刻という頃に、
信忠は出羽介(でわのすけ)の位を賜った報を受けていた。

 「出羽介様となられたことにより、
帝に御礼の御挨拶にいらっしゃるのですか」

 「位を授かれば、ただでは済まぬ。
挨拶はともかく礼を失するわけにはいかん」

 金、銀、反物等、
相当な「礼」を用意する必要があった。

 「怠りなく用意しておくように」

 「はい。三郎殿に御指示を仰ぎ、
間違いのないよう、努めましてございます」

 三郎は昨今、朝廷、公家の礼式、典故等、
有職故実(ゆうそくこじつ)を熱心に学んでいて、

 「食べ物や健康法以外にも、
興味を持つようになったと見える」

 と、信忠が揶揄うと(からかうと)

 「私を軽んじますと痛い目にお遭いになられますよ。
京で赤っ恥をおかきにならぬと宜しいのですが」

 と、言い返してきた。

 「その時は三郎も一蓮托生ではないか。
岐阜の山猿御一行様とな」

 「む……」

 「儂が稲葉山の猿大将なら三郎は副大将じゃ。
で、あろう?」

 「むむっ!」

 というようなやり取りをして笑った。
 三郎は信忠の初の上洛が近いことを予想し、
自ら城下の学者を招き、
公家の儀式、典礼を習っていた。

 勝丸の左手が信忠の右肩に添えられて、
柔らかに揉むような動きを見せた。

 「心地良い」

 「今日は槍術(そうじゅつ)を、
ずいぶん熱心になさっておいででした故、
やはり幾らか凝っておられます」

 「うむ……次は逆も頼もうか」

 「はい」

 信忠がうつ伏せになると、
片膝立てで座した勝丸は右肩、両腕、背筋と、
解して(ほぐして)いった。

 目を閉じると、ふと仙千代が思い浮かぶ。

 今頃、京でどうしているのか……
このように父上の身を解しているのか、
それとも……

 幾筋かの髪が、
薄っすら汗の滲んだ仙千代の頬にかかって、
眉根を寄せながら時に激しく首を左右に振ると、
いっそう乱れ、清艶(せいえん)な唇に張り付く。
 その髪を払う指は信忠の指に似ているが、
信忠ではなく、仙千代の主のものだった。

 「若殿……」

 「ああ、起きておる。眠ってはおらぬ」

 「お休みになられるのであれば、
燭台を消しまする」

 「消さぬ方が良い。何故か分かるか」

 勝丸の手の動きが明らかにちぐはぐになった。

 「何を考えておる」

 「いえ、何も」

 信忠は仰向けになると勝丸をぐっと引き寄せ、
胸と胸が重なるようにした。

 「斯様なことを考えたのであろう、今さっき」

 「左様なことは、何も……」

 と言いつつ、
頬も耳も赤らめている勝丸が愛おしかった。

 「勝丸は果報者でございます」

 「何故(なにゆえ)か」

 「言いとうございませぬ」

 「では、言わせてやろう……」

  この角度から見る勝丸は、
亡き清三郎以上に、
仙千代とよく似た面立ちをしていた。

 勝丸を大切に思いながらも、
何故仙千代を求めてしまうのか、
信忠は自分を責めた。

 何も悪くはない仙千代をあれほど傷付け、
その実、こうして未練がましく、
仙千代の面影を探す……
 情けない男だ、
情けないとしか言えぬ、この儂は……

 「若殿……どうされたのです?」

 信忠は敢えて答えず、勝丸の上になり、
舌を押し込み、口を強く吸った。

 何故、勝丸では足りぬのだ、
何故、仙千代でなければならぬのだ、
何も変わりはせぬ、
何も変わりはせぬはずなのに!……

 「んん!若殿、息ができま……せ……ぬ」

 信忠の耳には入らなかった。
ただ、信忠と似た指をした男に組み伏せられ、
息も絶え絶えに喘ぐ仙千代の幻影を振り払うように、
勝丸を激しく求めた。



 
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