魔王、旅立つ

文字数 13,570文字

 花の香を含む風が窓から入り込み、男の頬を優しく撫でた。鼻先を擽る甘い香りに、男は深く長い溜息を吐く。


「はぁぁぁぁぁぁぁ……」

 手が届かないものに漠然と焦がれ、空虚な未来を憂い哀しむような。
 惑星クレオの南半球に位置する、魔界の地イヴァン。
 その中心に位置する魔王アレクの居城の、とある一室。数か月前は迎賓室であったその場所に、一人の男が滞在していた。彼の名はハイ・ラゥ・シュリップ、惑星ハンニバルの魔王である。
 ハイは先日から、忘れ去ったはずの“苦悩”に直面していた。思い返せば、成人の儀を迎えた誕生日以降、勝手気ままに暮らしてきた。ゆえに、思い通りにならない現実に苛立ちを覚え、不安を募らせる。それは厄介なことに、味わった事がなかった種類の苦悩である。万策尽きた、そこから抜け出す方法を見出すことなど、雲を掴むようなものだと痛感する。
 恐らく、生きている者でこの苦悩に直面しない人物の方が少ないだろうが、それすらもハイには分からなかった。
 見事な黒髪を風に靡かせ、瞳に憂愁の色が浮かぶ。切ない恋に悩む青年、そう表現せざるを得ない。
 現在、切ない恋心を体験中の魔王。二十六歳にして、遅すぎる初恋。虚ろな瞳で、鏡の中でにっこりと微笑んでいる少女に手を伸ばす。
 冷たい鏡の彼女の唇に、そっと指を這わせて戸惑いがちに声をかけた。

「名は、名はなんというのだ、美しい娘。私の心を掴んだまま離さない誘惑の悪魔のような……天使よ。そなたの笑みは天上の光、仕草は愛らしき小鳥のよう、その鈴の音のように心地好い声は女神の歌声」

 多少芝居がかり過ぎな台詞を吐いている魔王だが、ハイは真剣だ。
 耐え難い極度の胸の痛みは、精神すらも蝕む。彼女を見ているだけで心が安らぐのに、その先の事を考えると憂鬱だ。恋愛の存在自体は知っていたが、生憎ハイの周囲に対象となるべく相手が今まで存在しなかった。まして、他人はおろか、自分ですら嫌悪感の対象であるハイには、誰かを好くという行為は無に等しい。
 そんな魔王ハイが恋をした相手が、勇者アサギだった。まさに、一目惚れ。歳の差など関係ない、この世界では二十六歳と十二歳でも、犯罪ではない。
 ハイにとっても、運命であった“あの日”。
 王子と王女を追っていた使い魔の視線が捕らえた映像により、勇者の姿を確認できたところまではよかった。想像していた勇者とは違い、実に可愛らしい小柄な少女だった。そこがまず問題だ、可愛らしいと思ってしまったのだ、あろうことか勇者を。百歩譲ってそれも良しとしよう、問題はそこから数日後である。
 恋に堕ちたとは思っていなかった、ただ、とにかく可愛らしくて愛おしくて、一目会いたいと思っていただけだと。
 本人の意思とは裏腹に、確実にアサギはハイの心を射抜いてしまった。まぁそれも、仕方がない。“アサギ”が“アサギ”である以上、避けて通れぬ道だ。
 ようやく「これが噂の恋か」と自覚したものの、そこからは甘くて苦い、和みつつも切なく、それでも見ていられれば笑みが溢れてしまうという本人が混乱するほどの事態になった。
 重症である。
 尚、客観的に見ていた別の魔王らにとっては想定内の事だ。ハイが人間を見て『可愛い』やら『気に入った』と言った時点で、この展開を予測していた。ご丁寧に勇者の姿を魔王仲間に見せびらかしてまで、自慢していたあの日。
 非常事態である、魔王は勇者に恋をした。
 絶望的な恋だ、成就される確率など無きに等しい。
 勇者はまだ、魔王を知らない。当然、魔王を見つけ次第、挑んでくるだろう。それが使命だ、その為に異世界から召喚された筈だ。
 そうなった場合、果たしてハイが勇者に対して攻撃できるかどうかが問題になってくる。いや、確実にこの状態では出来まい。このままでは、自ら攻撃される事を喜んで受け入れそうな勢いである。それも、本望だとばかりの満面の笑みを浮かべて。
 想像すると気色悪いが、真実になりそうだった。
 ハイとて解っていた、もし、対峙する事があったらあの勇者に胸を一突きにしてもらおうと。

 ……心に秘めたこの想いを、彼女に打ち明ける気はない。それで良い、勇者は魔王を打ち砕くだろう、喜ばしい事だ。そうして私は、本懐を遂げる。

 沈鬱な空気に包まれたまま窓際に立ち、何度も溜息を吐いた。
 ハイは人間が嫌いだった、故に人間の自分も嫌いだった。人間の滅亡を渇望し、人間を最も憎む魔王だとなった。冷酷な態度、言葉、表情、全てが真冬の凍てつく空気を思わせ、残忍で凶悪、傍若無人な魔王ハイ。……だったはずが、この数日間で豹変した。
 弱気で伏目がちな瞳、窓から何処か遠くを見つめて上の空、溜息を吐き続ける。食事も喉を通らないという、明らかに典型的恋の病にかかった。
 原因はあの勇者の少女であると、魔王達の中では周知の事。
 勇者が彼女でなければ、こんなことには。
 数日経過すると、魔王らは流石に眉を顰めた。
 魔王ハイの右腕の中には、可愛らしいお人形。どうみても、勇者アサギを象ったしか思えないそれを、愛しそうに抱き締めている。確かに、人間らには気味悪がられそうな風貌となったが、魔王らも頭を抱えて頭痛に苛まれる。

「名前が知りたい、名は、名はなんというんだ? 私はハイ」

 愛しそうに人形に語りかけるハイは、非常に変態染みた危ない構図である。最早、気が触れたとしか思えない。以前から部屋に引きこもり気味のハイだったが、より一層外出から遠のいていた。稀に廊下でよろめきながら歩いている姿を目撃するのだが、何かを探すように目の焦点が合っていない。
 ハイの心は、あの勇者のもとへと飛んでいってしまったのだろう。
 微笑みながら髪を撫で続ける……という同僚の姿を数日前から目撃している魔王リュウは、救いの手を差し出す事にした。放っておくには不憫だった、というよりも。
 部屋の中でハイが勇者人形と戯れている頃、リュウは小瓶を幾つも抱え、上機嫌でハイの部屋に足を向けた。鼻歌交じりで、何処となく愉快そうなリュウの姿は、とても今から手助けにいくとは思えない。
 けれども一応リュウ的には真剣に手助けをするつもりだった、方法はどうであれ。
 ただ、リュウを知っている者ならば助けを遠慮するだろう、顔を引き攣らせて。リュウが絡むと碌な事が起こらない。余計にこじれるのがオチである。全く別の問題に発展する可能性大だった、只管迷惑な話である。しかし、本人に悪気は微塵もない。
 そんなリュウが自室に向かっているとは露知らず、ハイは届けられた食事を口にするためテーブルへ向かう。目の前には大人の男にしては極端に少な過ぎる、そして似つかわしくないものが置いてあった。けれどもこの量すら、今のハイにとって精一杯なのである。

「いただきます」

 傍らに置かれたフォークに手を伸ばす。本日の夕食は、トマトと挽肉をじっくり煮込んだソースをパスタのようなものに絡めたもの(たこのような形をとった肉の腸詰つき)、キャベツとキュウリのサラダに、小さなハンバーグ(目玉焼きつき)、オレンジゼリーだ。
 それらが一つのお皿に乗せてある。つまり、日本でいうお子様ランチ風だ。
 懸命に口を動かし、ハイは必死に食べ物を喉に通した。
 降り積もって硬くなる雪のように、心に降り積もる愛しさと切なさの想いは、ハイの胸を支えきれず。重苦しい溜息を吐きながら、膝に乗せている人形を見た。
 ハイがこの部屋から出たがらないのは、ここに居ればアサギの姿をいつでも見ていられるからである。部屋の中心にある鏡、それにはアサギが映し出されていた。

『勇者を手に入れてみるのも、一種の余興なんじゃないかなー、なんて思ってみたりしたぐ?』

 リュウの言葉が、甦る。
 昨日の“緊急魔王会議~勇者を見つけました、可愛いです~”は、リュウの一言で思わぬ方向へと話が動いた。
 勇者を、手に入れる。
 その発言によって、勇者の居場所を探り出す事になったのだ。勇者は神聖城クリストヴァルに最初に訪れる、という伝承を知っていたアレクがハイにそう告げ、監視の名目で魔道眼球を取り付けた飛行タイプの魔物をそちらに数羽向かわせた。
 その中の一羽が洞窟へ入る前の勇者一行を発見し、四六時中張り付いているのである。その映像が、ハイのこの自室へと届けられていた。洞窟内部は映像が途切れたのだが、出てきた途端ハイの瞳は釘付けになった。恋焦がれたアサギが映像として届いてきたものだから、感動のあまり身体を震わせ、瞳を潤ませ。そこからずっと、この鏡だけを見つめていた。
 プライバシーの侵害満載、目下盗撮中、勇者をストーキングする魔王。

「うぉ!?」

 裏返った声でハイは叫ぶと、フォークを床に落とした。というのも、アサギが衣服を脱ぎ出した為である。後ろから湯気が立ち上っているので、沐浴をするのだろうと判断した。
 ハイは顔を赤らめ、椅子をなぎ倒し立ち上がった。腕を組み、部屋中をぐるぐると歩き回る。

「み、見てしまっては変態だ!」

 今でも十分変態めいているのだが、一応理性は残っていたらしい。入浴を覗くという卑劣な行為は、流石に出来なかった。

「わ、私は絶対に見ない! そう決めたのだっ」

 鏡に背を向け、床にどっかりと座り込むと自身に言い聞かせるように叫ぶ。
 丁度その時、リュウがハイの部屋に到達しノックもせずに勝手に進入した。ハイの姿が見えないので続く部屋のドアノブに手をかけて、勢いよくドアを開く。

「ハイーっ! ……って、あれ? 何してるぐ?」

 その部屋の中には、涙を零して座り込んでいるハイの姿があった。膝を抱えて鼻を啜り、涙を拭わず必死に動き出そうとする身体と格闘しているハイの姿である。魔王の威厳もあったものではない、なんともまぁ、情けない姿である。
 眩暈を覚えたリュウは、頬を引きつらせ原因を探した。すぐにハイの背後にある鏡を見て即座に納得する、そこには例の勇者が数人の女性と楽しそうに入浴している映像が映っている。

 ……恥ずかしくて、見られないぐ? 流石に悪いと思って、見ていないぐーか? あぁ、でも、本当は見たいぐーな?

「見たいというか、拝みたいぐーな。見ればいーのにー、ぐっ」

 リュウは、「自分達は魔王だから他人の嫌がることを率先して行っても、許されるぐー、魔王の特権だぐー」と意味不明な説得を始める。

「嫌われてしまう」

 くぐもった声で反論したハイは、ぐすっ、と鼻を啜って首を横に振った。今にも死にそうなか細い声の、みすぼらしい同僚を見つめつつリュウはおかまいなしに鏡を見る。

「やれやれ、情けない魔王だぐ。……ふ~ん、顔が幼いわりに胸は結構膨らんで、なかなかそそられる身体をしている良い感じの娘さんだぐ。幼い顔立ちの衣服の下には、男を狂わせるに十分な立派なものを隠し持っていたぐーな」

 しげしげ、と近寄って鏡を見つめるリュウは、率直な意見を述べた。
 その台詞を聞き、ハイは思い切り顔を赤らめた。耳まで真っ赤にし、狼狽する。
 が、遅れて血相を変えると悲鳴に近い罵声を上げる。

「そ、そうなのかっ……などと納得してる場合ではないっ、何故お前が見ているんだ!? 待て、見るな! 見るんじゃない! お前如きが見て良いものではない!」

 当然のことながらリュウに掴みかかる、例えは悪いが大事に取って置いた好物の菓子を横取りされたかのごとく。ハイは葛藤しながら血の滲む思いで我慢していたのに、リュウは躊躇することなく、見てしまった。

「こ、この私がどれほど我慢していたか! やって良い事と、悪い事があるだろう」
「そんなこと、私は知らないのだぐー」
「殺してやるぅぅぅぅぅ!」

 激怒しているハイに掴みかかられても、リュウは平然としていた。寧ろ微かに笑みを浮かべて、非常に楽しそうにしている。
 ハイの両手から不穏な風が巻き起こる、互いの長い髪が揺れて宙に浮かび上がる。
 最大級の風の魔法を放つつもりなのだろうが、リュウは軽い溜息を一つ零すと、ハイが詠唱を終えるより先に行動に出た。髪を振り乱し、鬼神の様なハイの目の前で冷静に立っていられる人物は、リュウくらいだろう。この何事にも動じないリュウの態度は、尊敬に値する。
 一歩進んで鏡がハイの真正面に来るように仕向けたリュウは、手を差し伸べた。

「素直に見ればいいのだぐー。はい、どーぞ」

 ハイの目の前には鏡、入浴しているアサギの裸体が飛び込んで来た。
 偶然にも温泉から上がったところだったので、全裸である。暑そうに手で煽ぎ、風を作っている。差し出された布で身体をすぐに包んだのだが、完全にハイは見てしまった。

「わわわわわわわわわわわ私は、そ、そんなこと」

 詠唱しかけの魔法が忽ち消え失せる、急に弱々しくなると赤面して俯いた。
 それから。

「ごはぁっ」

 ハイはぶしゅぅという間抜けな音と共に盛大に鼻血を吹き出し、満足そうに「恐悦至極」と破顔して床に倒れる。「生きていて、よかった……」それはこの上なく、幸福に満ち足りた、輝かしい笑顔だった。
 このまま、天に召されるのではないかと思う程に。
 鯨の潮吹きの如く吹き出した鼻血は止まることなく、このままでは出血多量で死んでしまう。倒れたハイを、呆れた顔をしてリュウは爪先でつつく。

「情けないのだぐー」

 ひっくり返ったまま微動だしないハイを見下ろし、暫し無表情でいたのだが、不意に軽く唇の端を持ち上げてゆっくりと笑う。……その笑顔、なんと恐ろしい事か。

 数分後。

「で。何の用だ」

 回復したハイは、一応客のリュウに不機嫌そうに紅茶を差し出した。大好きな鏡鑑賞を邪魔されたのだ、仏頂面になっても仕方がない。おまけにこの客室には鏡がない、のでアサギの姿を観ることが出来ない。
 形ばかりのもてなしを受けたリュウも、不服そうに唇を尖らせる。甘党のリュウは、砂糖が入っていないその紅茶を渋々口に含む。それから、疑問を率直に投げた。

「その人形、ハイが作ったぐ?」

 人形の存在は知っていたが、間近で凝視したのは初めてだ。その丁寧な裁縫に、視線は釘付けになる。重苦しい沈黙の後、ようやくリュウは小刻みに肩を震わせながら尋ねたのだった。

「当然。可愛いだろう、触らせないからな。こう見えても幼い頃から裁縫は得意で」

 一瞬呆気にとられたが「触りたくもないし、そもそも得意かどうかは訊いてないのだがっ」とリュウはすぐさまツッコミを入れる。
 だが、信用していないのか、ハイは嫌悪感丸出しでリュウを睨みつけた。その鋭利な視線で、人形を大事にしている度合いが判明した。

「や、触らないから安心するのだ」

 苦笑いでリュウがそう告げると、ハイは安堵して人形をぎゅう、と抱き締める。

 ……怖いよ、ハイ。

 本物に触れることができないので、こじらせてしまったらしい。ついに人の道を逸れて、人形を愛でる事にしたのだろうか。頬をすり寄せ、口づけまで始めたハイに鳥肌が立つ。中断させようと、リュウは大声を出しテーブルを叩きつけた。

「今日はハイを助けようと思って来たのだぐー。イイモノをわざわざ調達してやったんだから、感謝するようにだぐ」
「イイモノ?」

 助けてやる、とリュウに言われても胡散臭い。アレクに言われれば喜んで聞き入れていたのだろうが、生憎相手はリュウだ。俄かに信じられない、当然である。親身になって考えてくれそうもない相手だ、紅茶を啜りながら迷わず首を横に振って拒否する。
 けれども、リュウはにんまりと微笑みテーブルにコトン、と小瓶を置く。

「惚れ薬を持ってきたのだ」
「不要だ、そんな外道な物には頼らない」

 予想以上の即答に多少リュウはたじろいだ。そう断言し、紅茶を啜っているハイを見つめつつ、軽く仰け反って次の手を考える。

「ふーん。じゃあこれは? 媚薬、効果抜群だぐっ」

 リュウは新たな小瓶を差し出す、中身は紫色した液体だ。毒々しい、粘着ある液体が中で蠢くように波打っている。
 余裕めいて鼻の穴を膨らませたリュウに、ハイは首を傾げた。

「びやく? なんだそれは?」
「え、知らないぐ? 口にすれば誰でも淫乱になってしまうという便利な代物なのだぐー」

 先程の惚れ薬よりも性質が悪い一品だ。これは御丁寧にハイ用に取り寄せた媚薬である、リュウが愛用しているわけではない。男女の色恋ごとに興味のないリュウにとって、それこそこの薬は不要だ。
 低く唸って睨みつけてくるハイに、リュウは苛立ちを覚えて小瓶を宙に投げる。受け止め、また投げて、を繰り返した。

「良いんだぐ、魔王だから。所詮我らは外道、使えるものは使う。奪ってしまえ、勇者をこれでモノにすればいいのだぐ」
「も、モモモモモモモモモモノにするだなんて、そんなこと」

 顔は赤らめずに、遺憾を憶えて唇を噛み締めるハイに、不服そうにリュウは頬を膨らませる。

「モノにしてしまえば、ハイが飽きるまで傍にいるぐーよ」
「そんなことして傍に居て貰っても私は嬉しくないっ! あの子の意志で私の傍にいて欲しいと思う。それから訂正しろ、私が飽きるまで、だと!? 飽きるわけがないだろう、この想いは未来永劫続くのだ!」

 リュウは、ハイの真剣な眼差しを白けて見やる。聖人ぶっている姿に苛立ちが増し、澱のように心に溜まった。

「でも想いだけではどうにもならない、我らは魔王、あちらは勇者。対局だぐ、卑劣な真似をせねば無理だぐ。ならばこうしよう、拉致監禁すればいいぐ。で、『くっ、殺しなさい! 魔王に辱めを受けるくらいなら、いっそ……!』『クックックッ、威勢の良い娘だ。しかし、どこまで耐えられるかな?』『や、やめっ、らめぇぇぇっ』とか、そんな感じで」
「私は、力でどうこうするのではなく、私自身を知ってもらって心を通わせたい。それが“愛”だと思う」

 リュウは、絶句した。

「愛? いつから聖職者になったぐ、ハイ? 君は、魔王だ。何を今更愛などと」
「……もういい、疲れた。帰ってくれ」

 力なくリュウを見つめると、ハイは悔しそうに唇を噛み締め項垂れる。『魔王と勇者だ』など、他人に言われなくてもわかっていた。今更他人に言われても傷つかないと思っていたが、実際に言われてしまうと、精神は脆くて危うく崩壊しそうになる。
 更に、自分の口から“愛”などという甘ったるい単語が飛び出た事にも激震した。次いで“聖職者”と言われた事にも、動揺する。
 神官のままであったなら、聖職者として堂々と愛を語れたろうに。今は闇に身を堕とした暗黒神官だ。
 テーブルに突っ伏してそれ以上何も語ろうとしないハイに、深い溜息一つを置き去りにして、リュウは部屋を後にした。

「これは重症なのだぐー。手に負えないかもしれないぐ」

 リュウは廊下の壁に持たれて、持参した小瓶たちを頬を膨らまして一瞥する。

 ……まぁでも、ちょっと、楽しいかもしれない、かな。

 ハイの余裕がなく、取り乱した姿を見ているのは楽しい。

「随分と人間臭い事で、魔王ハイ? 君は魔王にして、魔王にあらず」

 自嘲気味ともとれる笑みを口の端に浮かべ、リュウはそう囁いた。

 翌日、噂を聞きつけて今度は魔王ミラボーがやってきた。そうして「勇者を攫ってしまえばよい、直接ハイが出向いて、魔界へ連れてこれば良いのではないか」と助言をする。
 昨日のリュウと言っている事は大差ないのだが、言葉の選び方が重要なのだ。ハイの中で“拉致監禁”と“攫って連れて来る”は、後者であれば可能だったらしい。

「勇者を魔界へ連れて来るなどと……確かに、逢いたいが……、いや、しかし……勇者をみすみす招き入れて、それからどうしたら……」

 言いながらも葛藤している様子のハイに、ミラボーは妙に親身になる。

「逢う方法はこれしかないのでは? 多少強引かもしれないが、そこはハイ、説得すれば良いぞ。つまりはハイ、君次第なのだと思う。腕の見せ所だとわしは思うがねぇ?」
「うんうん。ミラボーは良いことを言うぐ! 本当にハイがあの勇者のことを大事に思うのなら、説得すれば良いんだぐよ。そうして、勇者自らがここへ来たいと思えば良いのだぐ! ほぉら、なんの問題もない」

 いつの間にやらリュウも参加し、ミラボーに同意した。勇者が魔界へ来るとしたら、魔王を倒しに来る時だけだろう。それ以外に、どんな用事があって訪れるものか。

「し、しかしだな……その、私は口下手だ。拒否されたら、それこそ耐えられない。ならばいっそ、ここでこうして大人しく彼女の成り行きを見守っていたほうが愉悦であると」

 女々しい事を言い出したハイに、ミラボーとリュウは頭を抱える。

「攫ってしまえばいい、拒否されても強引に」
「うんうん、攫ってきてから、説得すればいいのだぐー」
「そんな無茶苦茶な! それを世間一般で、拉致監禁というのでは!? そもそも、自害でもされたらどうすれば!?」

 混乱と焦燥感に、葛藤。複雑な心境のハイは部屋を幾度も往復し、頭を捻っている。

 ……ええい、優柔不断な魔王め! 先日までの冷酷な態度はどこへ行ったのか。

 ミラボーとリュウは、顔を見合わせ引きつった笑みを互いに浮かべた。

「ここで実行しないと、永遠に逢えないと思うがのぉ。というか、逢うとしたら決戦の場で、になるぞよ」
「良く考えるんだぐ、説得が成功するかしないかは、ハイ次第なのだぐー。今が大事、まずは実行だぐ! 先手必勝、善は急げ!」

 ……懇願したら、勇者は快く魔界へ来てくれるだろうか? 敵意がないことを誠意を持って話せば、理解してくれるだろうか?

 魔界へ連れて来たら、一緒に話が出来るし、散歩だって出来る。食事も一緒で、上手くいけば入浴も一緒、共に眠ることも出来るかもしれない。などと、考えてハイの顔は緩む。
 いや、流石にそれはない。
 
 ……全ては自分次第、運命を切り開くのは、己の熱意、か。

 ハイは徐ろに顔を上げると、決心を固めた瞳で深く頷いた。腹を括ったらしい。

「よし。……解った、私が出向こう」
「そうかそうか、よく決意したのぉ! 早速行くがいい」
「ハイ、頑張れだぐー」

 ミラボーが嬉しそうに頷き、不気味な笑顔を浮かべた。これでも本人は心底祝福しているのだが、傍から見ると恐怖である。
 浮足立つ一体と一人を尻目に、ハイは静かに首を横に振った。
 途端、怪訝に眉を顰めるミラボーとリュウは「未だ何か問題が!?」と顔を見合わせた。 

「何故なのだぐー?」

 釈然としないハイに微かな苛立ちを見せるリュウは、足を踏み鳴らす。
 が、ハイは今まで誰にも見せなかった神々しいばかりの爽やかな笑顔を浮かべ、頬を赤く染めるとこう言い放つ。

「あの子に、とびきり豪華な部屋を用意したい。衣装や、家具も揃え……可愛いから、たくさん洋服を買ってあげたくてだな」
「……あ、そう。どうでもいいぐーな」

 リュウは項垂れ、斜め上の方向にやる気を見せたハイに哀れみの情を向ける。怒涛の勢いで部屋を飛び出し、アレクの元へと出向くハイを力なく見送った。
 取り残された一体と一人の魔王は、何も言わず静かに自室へと戻っていく。
 その腹に、本心を隠したまま。

 警護兵に止められたが、無視して力技でアレクの部屋に飛び込んだハイは直談判した。

「かくかくしかじか、というわけで、あの子の部屋が欲しいから貸してくれ」
「…………」

 普段と変わらぬ、澄んだ瞳ながらも感情が読み取れない無表情のまま、アレクは口を開いた。「ハイの隣の部屋を貸そう」とだけ静かに告げる。
 直様、大掃除が始まった。
 若い魔族の少女達を集めて聞き取り調査を行い、『貴女が憧れる住みたいお部屋』を造り出す。それから洋服も流行のものを取り揃えた、あとはハイの趣味で何やら色々と買い足される。
 ハイ監修の元、着実に贅沢の限りを尽くした可愛らしい部屋は、徐々に完成していった。
 数日を要したが、ハイ的には満足だったようで、人形を胸に抱きつつその完成した部屋を感激して見つめる。

「気に入ってくれると良いのだが」

 感動に打ち震え、「もうすぐ、逢える」と恍惚の笑みを浮かべる。嬉しくて堪らない、説得が成功してこの部屋に連れてきて、それから。

『ごらん、ここが君の部屋だよ』
『まぁ、なんて素敵なお部屋! 感激ですっ』
『いやいや、礼には及ばないよ。気に入って貰えたのなら十分だ』
『こんなにも私の事を想ってくださるなんて……ハイ様、ありがとうございます! 大好きっ』
『いやいや、そんな、大好きだなんて、そんな。あーっはっはっはっはっは……』

 あーっはっはっは……! 五月蝿いハイの笑い声が部屋中に響き渡る、未だ作業をしていた数人の魔族が、青褪めながらそっと部屋から出て行った。
 そもそも、ハイは偉そうに指示を出していただけだ。費用は全てアレクのツケとなっている。
 鋭意妄想中のハイに、様子を見に来たリュウすら声をかける事ができず、薄ら笑いを浮かべた。
 くるくると可憐に舞いながら、人形と踊るハイは、魔王の威厳、0である。

 ……あぁもう、この魔王はダメかもしれないぐー。

 リュウは天上を仰いで嘆息する、そろそろ彼の妄想に付き合いきれなくなってきた。

「ハイ、ハイ? いい加減迎えに行かなくていいぐーか? 主役がいないぐーよ、この部屋に。夢を夢で終わらせてはいけないぐー」

 耳元で叫ばれ、絶賛妄想中であったハイは、ようやく意識の矛先を現実へと向けた。けれども、照れ笑いを浮かべ、フフフフン、と含み笑いを漏らす。
 正直、気色が悪い。

「よし、では準備も整った事だし、そろそろ出かけようか。主役を迎えに行かねばな!」
「あーい、いってらっしゃーい、だぐ」

 薄ら笑いを浮かべ、冷ややかな視線を送っているリュウに高笑いを残し、意気揚々とハイは城を後にした。

「さぁ、勇者を迎えに行こうか!」

 けれども。

「…………」

 城から出て数歩、何処へ行けばよいのかわからない事に気がついた。この城から出た事は幾度かあったものの、この惑星の地理を全く知らない。まず、魔界イヴァンからの脱出方法が不明である。慌てて頼みの綱であるアレクの部屋へと出向いたのだが、生憎留守だった。仕方がないので渋々リュウの元へと戻ったのだが、「自分で頑張るぐー」と笑顔で追い返された。

「非協力的だな」
「いやいや、ここは魔王ハイ様の威厳で乗り切るぐっ」
「お前も知らないだけではなくて?」
「ぎくっ」

 茶番を繰り広げている場合ではない。
 そうして、最も躊躇していたミラボーの部屋へと向かった。ミラボーの部屋は妙に湿気が多い上に、日光が入っていないので、陰湿だ。正直、苦手な場所である。
 けれども、今は一大事だ、それどころではない。
 だが、部屋の雰囲気はともかくとして、歓迎された。快く地図と宝石を数個ハイに渡すと、簡単な説明もしてくれた。

「城の屋上に“港行きドラゴン乗り場”があるから、それに乗ってまずは港へ。そこから人間の街“ジェノヴァ”行きの船が出ている。勇者達もジェノヴァを目指しているようだし、そこで出逢えるはずじゃろうて」
「そうか、ありがとう。恩に着る」

 親切にしてもらって、はにかみながら会釈するハイは、心が軽くなった。

「いやぁ、人は見かけによらないなぁ。誤解をしていたよ」

 ミラボーは人ではないが。
 身体が宙に浮かびそうな程舞い上がっているハイは、一刻を争うように屋上へと向かった。踝までも覆い隠す衣服を、初めて邪魔だと思った。上手く走る事が出来なかったので、裾を引っ張り上げ真剣な面持ちで駆け抜ける。そういえば、全力疾走など幼少期以降していなかった。
 屋上に飛び出し、港へ行きたいことを告げると魔王なだけあって直様一体のドラゴンが用意された。
 まだ若いドラゴンナイトが、緊張した様子で硬直気味に手を差し伸べる。彼は貧乏くじを引いたらしい、何が哀しくて魔王を送り届けなければいけないのか。

「このドラゴンで、私をジェノヴァという場所まで連れて行ってくれないか?」
「む、無茶言わないでくださいよ! 僕とこのドラゴンでは長距離の飛行が出来ません。精々この魔界の一周が出来るくらいです」
「なんだ、役に立たないではないか」
「うぅ。ぼ、僕はまだ未熟なので。隊長階級のドラゴンナイトならば可能でしょうけど。そもそも、このドラゴンとて長距離の飛行は不可能です。互いが信頼しあった真のドラゴンナイトと相棒のドラゴンでないと、あんな場所へは」
「では、可能なドラゴンナイトを連れてこい」
「い、今不在なんですっ。あー」

 困り果て嫌な汗をかいている若いドラゴンナイトは、隣で憐れみの視線を送っていた同僚に思わず声をかけた。しかし、「こっちへ振るな」と後退りし、次第に離れて行く。

「トビィは? 今何処にいるっけ?」

 焦って、問いかける。せめてこの場に居てくれと、涙を瞳に浮かべて懇願する。 

「……トビィはこの間から旅に出ていて不在だよ、連絡もないらしいし」

 聴いていたハイは首を傾げた、トビィという人物ならば可能なのだろうかと、淡い期待を胸に抱く。
 けれども、平身低頭して若きドラゴンナイトはハイに結論を語った。

「御気の毒ですが、彼は今は不在ですので、無理です。人間ですが、凄腕のドラゴンナイトがいましてね、彼ならば可能でした。まぁ、人間であるが故に、隊長にはなることが出来ませんでしたが。腕は確かです、僕も憧れてましたから」
「トビィとやらを呼び戻せ、魔王ハイの命令だ」
「そう仰られましても、行方不明です、居場所が掴めません。申し訳ありませんが、大人しく港から船で出発してくださいっ」

 悲鳴に近い声で強引にハイをドラゴンの背に乗せると、問答無用で出発する。
 文句を喚き散らすハイだったが、初めての飛行に唖然とし、大人しくなった。緑の木々が何処までも茂り、風になびいて大きく揺れる。壮大な景色に圧倒され、胸に熱いものが込み上げる。言葉を忘れ、ハイは瞳を輝かせて情景を目に焼き付けた。流れる雲に見え隠れしている太陽、その光が眩しくて思わず瞳を閉じ。木々の合間から突然見えた大きな湖に歓声を上げ、その透き通るような美しさに見惚れ。そして産まれて初めて海を見た、地平線の向こうにも続く広大な風景である。
 初めての経験で暫し放心状態だったハイだが、到着した港で我に返って言葉を失う。
 何処から湧いて出たのか、魔族で溢れていた。ハイは知らなかったのだが、魔界で最も栄えている場所はここである、故に多くの魔族達が集まっていた。魔族密度に興味がなかった為、聴きもしなければ調べもしなかった。
 まだ昼間なのに、酒の香りと陽気な歌声が聞こえてくる居酒屋。新鮮な野菜を自慢げに売る店、妖しげな道具を売っている店、洋服を並べている店主は客を褒めちぎって買わせている。
 ハイは、店を初めて見た。
 神官だった頃も最近も、訪れる行商人から気に入ったものを買い取っているだけで、自身で店に出向いた事は今までなかった。
 身体が疼く、楽しい、と思った。

「はーい、船に乗るお客様はこちらに並んでくださいー! お名前とご住所の申告と、料金十マリをお支払いくださいね!」

 ようやく船着き場に到着すると、一列に行儀よく並んでいる魔族達に紛れ込む。

「はいはい、次の方お名前をー」

 元気な少年の声は、耳に心地良いトーンだった。ハイはそう問われ首を傾げる、名前はともかく住所は知らない。

「私はハイ・ラウ・シュリップ。住所は知らん、アレクの城の一室が居住地だが、それでどうにかしてくれ」

 聞いた途端、少年の笑顔が一気に凍りついた。少年はもちろん、周囲の魔族達も硬直した。
 怪訝そうに瞳を細め、ハイは少年を見下ろしている。
 少年は、乾ききった唇をなんとか舌で湿らせ、恐る恐る声を張り上げる。

「えーっと。で、ではアナタ様はハイ・ラウ・シュリップ様ですか!? 」
「あぁ、そうだが何か?」
「惑星ハンニバルから来た、魔王ハイ・ラウ・シュリップ様ですか!?」
「あぁ、そうだが何か?」
「ひ、ひええええええええええいいいいいいいっ!」

 順に皆がひれ伏していく、ハイを中心にして広がる輪は何処までも。波紋の様に、広がっていく。
 唖然とその光景を見つめていたハイだが、怒鳴りつけた。

「頭なぞ下げなくてもいい! 時間が惜しい、一刻も早く船を出せっ」
「わっかりましたぁぁぁぁぁぁ!」

 魔王の一声は、容赦ない。

※2020.7.7 白無地堂安曇様から頂いたハイのイラストを挿入致しました。
著作権は安曇様にございます。
無断転載、加工等一切禁止させていただきます。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

アサギ(田上 浅葱) 登場時:11歳(小学6年生)

 DESTINYの主人公を務めている、謎多き人物。

 才色兼備かつ人望の厚い、非の打ち所がない美少女。

 勇者に憧れており、異世界へ勇者として旅立つところから、この物語は始まった。


 正体は●●の●●●。

ユキ(松長 友紀) 登場時:11歳(小学6年生)

 アサギの親友。

 大人しくか弱い美少女だが、何故かアサギと一緒に勇者として異世界へ旅立つ羽目になった。

 トモハルに好意を抱いている。

ミノル(門脇 実) 登場時:12歳(小学6年生)

 アサギのことを嫌いだ、と豪語している少年。

 アサギ達と同じく、勇者として異界へ旅立つ羽目になったが、理不尽さに訝しんでいる。

 トモハルとは家が隣り同士の幼馴染にして悪友。

 多方面で問題児。

トモハル(松下 朋玄) 登場時:11歳(小学6年生)

 容姿端麗、成績優秀であり、アサギと対をなすともてはやされている少年。

 同じく異界へ勇者として旅立つ。

 みんなのまとめ役だが、少々態度が高慢ちきでもあったりする。

 なんだかんだでミノルと親しい幼馴染。

ダイキ(中川 大樹) 登場時:11歳(小学6年生)

 剣道が得意な、寡黙な少年。

 人づきあいが苦手なわけではないが、自分から輪の中に入っていくことに遠慮がち。

 同じく、異世界へ勇者として旅立つことになる。

 やたらと長身で目立つことがコンプレックス。

ケンイチ(大石 健一) 登場時:11歳(小学6年生)

 ミノルと親しい可愛らしい少年だが、怒らせると一番怖い。

 同じく異世界へ勇者として旅立つことになった。

 従順だが、意に反することには静かに反論する。

リョウ(三河 亮) 登場時:11歳(小学6年生)

 作品のメインである一人。アサギは「みーちゃん」と呼んでいた。

 アサギと親しく、出会ってからは常に一緒だったが、勇者に選定されず、地球に取り残されてしまった。

 常にアサギの身を案じ、地球で不思議な能力を発揮している。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み