外伝6『雪の光』13:女という悪魔が住まう、後宮という名の魔窟
文字数 3,888文字
降り積もる雪は、いつ解けるのか解らない。本当に春は来るのだろうかと疑う程に。
後宮に、アロスの部屋が設けられた。トシェリーの寵姫ということで部屋は広く、かつ多くの女官がつき従った。
髪を梳かされ、身体を洗われ、服すら自分で決められぬ退屈な生活に、アロスはうんざりしていた。誘拐される前は侯爵令嬢であったとしても、質素堅実な家柄の為ほとんど自分でこなしてきた。何もかも世話をされることに不服を覚えたものの、生憎声が出ない。意思を伝えることが出来なくて、歯痒い思いをした。
母国の文字を書く事は出来たものの、この国の文字は現在習っている最中。懸命に覚えるアロスを見て、他の女達は嘲笑した。
「なぁに、あの子。文字書きすら出来ないというの? とんだ出来損ないよ」
しかし、機知に富む為、アロスの習得は目まぐるしい。これには家庭教師も驚いていた。
アロスが後宮に居る為、トシェリーは頻繁に顔を出すようになった。
女達はここぞとばかり着飾ってトシェリーに詰め寄ったが、相手にされない。冷酷な視線を浴びせられ、恐怖で遠のく者もいた。
女達にしてみれば、突然やって来て全てを手中にしたアロスが憎くて仕方がない。
「ガーリア様がいるというのに、身の程知らずな!」
ガーリア付きの女官らはアロスに目くじらをたてたが、当の本人は至って気にしていなかった。ただ、トシェリーを溺れさせた少女の美しさに魅入った。
「確かに、お人形のようね」
「ですが、寝所はそれこそ冷えているのでは? 声を出せぬとなると」
「声が出なくても好いほどに、あの娘に魅力があるのよ。……確かにあの子は、昔本で読んだ天使のよう」
ガーリアは、王の間で茶会を愉しんでいる二人を庭園から見つめた。
「天使は、人間に恋をして空から降りてきたのよ。その際、天使の羽を消さねば人間に溶け込めないから、薬を貰う代償として、自分の声を偉大なる魔女に渡した。……彼女に声が戻る時は、天に還る時」
美声でそう謳うと、周囲に居た者達がうっとりと溜息を吐く。
「流石は、美声の君! 七色の声を持ち、聴いた者を魅了する魅惑の姫君様」
しかし、そんなもの役に立たなかった。ガーリアは自嘲気味に微笑むと自室へと戻る。
「……何処までも目障りな小娘ね」
ミルアも、庭園からトシェリーとアロスを睨み付けていた。
ユイは二人が食べている菓子を羨まし気に見つめている。ハチミツと山羊の乳を使った甘い焼き菓子で、滅多に食べられない。アロスが来るまではミルアがトシェリーに幾度か呼ばれた為、その際におこぼれとして貰っていた。味を思い出し、腹を鳴らす。
結局、トシェリーが後宮に戻ってきたところで相手にされない。それどころか、ぞんざいな扱いに余計惨めになった。
「どなたかのもとに嫁ぎたい……」
王は時折、手柄を立てた家臣に後宮の女を下賜することがある。その時にのみ、
「戦争が起きればいいのよ。そうしたら、トシェリー様の目に留まる家臣が出てくるもの」
「簡単に戦争と言っても……。頻繁に起こるものではないでしょう?」
その可能性も低いと分かるなり、女達は嘆いた。
めっきり静かになった後宮は、やる気のない女達で溢れかえった。国王に相手にされないので、閑散としていた。
「ねぇ、ユイ。あの邪魔な小娘どうにかして消せないかしら」
「そうは申されましても、ミルア様。あれだけ警護が厳重ではなかなか……。溺愛なさっている王の頭部を背後から鈍器で殴り、正気に戻すしか思いつきません」
「……うーん、流石にそれは危険な賭けね」
ミルアは爪の手入れをさせながら、どっかりと足を組んで踏ん反り返っていた。退屈そうに髪を指に巻き、大きな欠伸を幾度も繰り返している。飲み物を催促し、届けられた温かい茶をすする。
「本当にミルア様はお美しい。羨ましいです」
「ありがとう」
献身的に世話をするユイを見て、他の女官らは様々な思いを抱いていた。誰も口にしないが、多くは非常に気分屋で荒々しいミルアを恐れ、極力目立たないようにしているのだろうと思っている。お世辞を言い続け、お膳立てしていれば美味い汁を吸うことが出来る……そういう狡猾な女。
確かに合っているが、ユイは近くでミルアの残虐性も見てきたので、一度嫌われたらどうなるか、凄惨な末路を知っていた。
「あんな小柄で貧相な娘の、何が良いのかしら?」
「さぁ……。ミルア様の溢れ出る色気と美しさに、たまには貧相な女がよくなったのではないでしょうか」
「あぁ、良いものを食べ過ぎたから、不味いものでも食べようかな、的な!」
「はい」
そんなわけがない。
ユイは、おべっかと気づかずに上機嫌になったミルアを冷ややかに見つめる。そう言いながらも、解っている。あのトシェリーが、心底アロスに惚れていることを。一目で見抜いた、後宮に来て女達の相手をしていた時とは、表情が全く違うからだ。王の気を惹くことはせず、常に一歩下がって観察していた為、手に取る様に解っていた。
だが、目の前の高慢ちきなミルアはそれに気付いてない。自分が最上の女であると信じて疑わないのだから、そのような考えなど思いつかないのだろう。王に愛されるべきは自分だと、胸を張っているのだから。
他の存在を否定せねば、生きていけないのかもしれない。
「しかし、本当に暇だわね」
「今のうちに、更に美しさに磨きをかければ良いのですよ。先日届いた香油で身体を揉みましょうか」
不貞腐れ髪をかき上げたミルアに、ユイはにっこりと微笑み香油を取りに歩き出す。作業するのは好きだった、一心不乱に手を動かしていれば、あっという間に時間が過ぎていく。
室内に移動し準備が整うと、ミルアは惜しげもなく裸体をさらし、うつ伏せになった。
「信頼している貴女達には教えましょうか。実は私、トシェリー様よりも良い男を捜しているの」
ミルアの意外な言葉に、ユイは大口を開けた。てっきり、后の座を狙っているのだと思っていたからだ。権力で民を支配することが夢ではなかったのかと、拍子抜けする。しかし、後宮に身を置きながら王以外の男を求めるなど有り得ない。
どれだけ頭が軽いのかと、女官達は失笑したいのを懸命に堪えていた。
「まぁ! どんな殿方が御望みですの?」
「トシェリー様も悪くないのよ、かなりの美貌よね。でもね、私……先日夢で見たの! 逞しくてとびっきりの美形で、女を抱き慣れていて、身長が高くて」
茉莉花の香油を身体に丹念に塗っていた女達は、絶句した。さらに突拍子もない事を言い出したので、冷静さを保てず腕が震える。けれども、笑ったらそれこそ首が飛ぶ。奥歯を噛み締め相槌を打ちながら、話を合わせた。
「まぁ、夢で御逢いになるなんて、とっても甘美で情緒的ですね」
ユイも顔が引き攣るのを感じながら、懸命に耐えていた。
「髪の色と瞳は、トシェリー様と同じだったのだけど。……決定的に違うのよ、とにかくこの世に二つと存在しない至高の宝の様な御方よ。彼こそ、私の夫に相応しい。恐らく、異国の王だわ。それも、この国よりも大きな国のね」
「ま、まぁ! 素敵っ」
ユイは「だったら、その彼とやらを捜しに後宮から逃亡すればよいのでは?」と正直に口に出しそうになって、慌てて言葉を飲み込む。にこやかに微笑んで、大きく頷き続けた。
「あぁんっ! あの逞しい胸板に舌を這わせたいっ、むしゃぶりつきたいっ。滅茶苦茶にして欲しいっ!」
ミルアが身体をしならせて身悶えたので、女達は呆れて溜息を吐いた。
ユイはこめかみを引くつかせ、口元を震わせながらも懸命に奉仕した。決して、本心を口にしない。「低脳なミルアに付き従っている自分も、似たようなモノだろうか」と心の中で呟き冷笑する。
ミルアは満足し、心地よい感覚から寝息を立て始めた。
こうなると、ユイは僅かばかりの幸せを実感できる。面倒な話し相手になることもない、自分の好きな事を考えられる。妄想でミルアを処刑台に乗せることも、重たい石を身体中に縛り付けて、海へ突き落すことも、獣だらけの森に裸で放つことも可能だった。
熱心に揉みながら、今日考えるのはミルアのことではない。アロスのこと。ユイは、このままトシェリーが彼女を后にすると思っていた。例え周囲が猛反対しても、王の一言が最大の威力を持つ。王の言葉は絶対であり、彼が晴れだといえば、雨が降っていても晴れなのだ。
ユイの願いは、平穏。
なので、未来に影を落とす脅威の人物であるアロスが邪魔になる。トシェリーが彼女を選べばミルアが激怒し、ユイに理不尽な火の粉が降りかかることなど目に見えている。
「こちらが手を出せないのであれば、いっそのこと……。トシェリー様に嫌われるようなことを、あの子がしてくれたら好都合ですのに」
ぼそ、と口にした。
「具体的には?」
いつの間に起きたのか、ミルアがユイの呟きに反応した。冷静さを装い、続ける。
「あの子に……トシェリー様暗殺の、濡れ衣を着せてみるとか。もしくは、他の男と恋仲に仕立て上げてみたり……。彼女付きの女官を買収するのも視野に入れましたが、恐らく不可能でしょう」
「色々と面白そうね! 退屈しのぎに試してみようかしら」
「ですが、内密に行わねば。王に露見すると縊り殺されますよ」
後宮の一角で、不穏な空気が流れ始めた。小鳥の囀りのような可愛らしい声で愉快そうに笑いながら、女達はアロスを陥れる為に計画を練り始めたのである。
一致、団結。一つの敵には、多くの味方で挑め。