外伝6『雪の光』18:怨恨
文字数 5,274文字
新たな女を射抜くように見つめたトシェリーは、嘲笑気味に吹き出して肩を竦めた。
「は?」
「ほら、トシェリー様。この子の身体から、私達が知らぬ匂いがするのです」
女は毅然として嘘をついた。アロスを嵌めねば、こちらが危うい事を肝に銘じている。誰かがやらねばならないのだ。
「さぁ、お行き!」
アロスの背を押し、トシェリーの近くへ行かせる。
「っ」
よろめいたアロスは、トシェリーの身体に微かに触れた。慌てて平伏そうとするが、目の前で激昂している彼に硬直する。
鰐が
女達の戯言だと思っていたトシェリーだが、奥歯が折れるほど歯軋りした。
「ほぉ」
鼻を打つ匂いに、こめかみを引くつかせる。
それは、先程女達がアロスにふりかけた“貴族の男が使用する流行りの香”。トシェリーは知ってはいたものの、自分に合わず使った事がなかった。手に入れること自体が困難であり、ここの女達が持っているはずがない。つまり、女達の嘘ではないと判断した。
狼狽し救いを求めて見上げたアロスの目の前で、トシェリーの瞳が釣り上がる。口元がわなわなと震え出し、目が血走る。
「なんともまぁ、お粗末な」
戸惑うアロスの姿が、シラを切っているように見えた。トシェリーは口角を上げ、歪んだ笑みを見せる。女達の嘘を信じ始めた瞬間に、今までの疑問が次々に解決する。
「成程、そういうことか」
トシェリーは、全てを理解したように喉の奥で低く嗤った。
濡れ衣を着せられるも、何が起きているのか理解出来ずに狼狽しているアロスは縮こまって震える。
……一体、何が起きているの!?
アロスは知らず、喉もとに手を添えた。声さえ出たら話が出来るのにと項垂れ、悔しくて顔を歪める。
けれども、トシェリーにはそれが演技に見えた。
「浅はかだったな」
トシェリーは引っかかっていた出来事を、鮮明に思い出していた。
今、息を切らせて走って来たのは、他の男と密会しており焦っていた為か。
部屋を空ける事が多くなったのは、逢引の為か。
肌を重ねる際に戸惑う素振りを見せたのは、別の男を想ってのことか。
『オレと居る時より楽しいのか?』と訊ねた際、懸命に否定したのはその男を庇っての事か。
考え出したらキリがなく、見知らぬ男に繋がる。全てが捻じれて、真実を覆い隠す。
内臓が震えるほどの激しい怒りに、トシェリーは腹を抱えて笑い出した。瞳が陰り、空気が震える。仲のよさがこじれた末の悲劇、燃え上がった恋の炎は一瞬にして漆黒の炎に変化した。激しい情動に身体中が支配される。
女達は豹変した空気を感じ取り、恐怖に怯えて後退した。
「ククッ……ハハッ……アーハッハッハッ! いやぁ、成程っ」
物音一つ立てられない緊迫した空気の中、嗤いながらアロスに近づいたトシェリーは、目の前の細い首に躊躇することなく手をかける。
青褪めた顔で突っ立っていたアロスの首にかけられたトシェリーの手は、酷く冷たい。それは、触れられた部分から凍ってしまいそうなほどだった。
「狡猾な女だ。あれほど……オレがっ!」
トシェリーは吼えるように叫ぶと、力を籠めて身体を持ち上げる。
アロスの身体は軽々と浮き上がり、首が絞まって口から泡を吐く。
固唾を飲んで見守っていた女達は、鋭い悲鳴を上げた。
「この……阿婆擦れがっ! お前はっ!」
アロスはもがきながら、トシェリーの腕に手を伸ばそうとした。けれども、届かない。力が入らず、手が動かない。意識が遠退き、視界が黒く染まる。
「このオレをコケにしやがってっ! 大金叩いて買ってやった恩が、これかっ! どの男だ!? 間男は何処にいるっ」
アロスは地面に叩きつけられた。頭部を強打し、床に転がり痙攣する。
悲鳴を上げる女達を気にせず、血走った瞳でトシェリーはうつ伏せのアロスの背を思いきり足で踏みつけた。
鈍い音が、こだまするように響く。
骨が折れたのだろう、アロスの身体が海老反りになる。
「言えっ! 男は何処だっ!」
ここは、後宮。
王と、宦官、そして幼い男の従者以外は入る事など出来ない筈だった。冷静になれば、幾らでも調べられる。そして、そんな男は存在しないという結論に辿り着く。
けれども、トシェリーは完全に我を見失っていた。憤怒に狂気めいた殺気がこもり、幾度もアロスを踏みつける。
「っ! ぅっ!」
女達は流石に目の前の凄惨な光景を直視出来ず、目を背ける。
「言えっ! 庇ったところで助けられると思うなよ、ソイツも殺してやるっ」
アロスは、声が出ない。言葉で証明出来ない。しかし、このトシェリーが相手では、声が出たとしても信じてもらえるか怪しいものだ。
身の潔白を証明できる女達は、結託している。誰も、異を唱える者などいない。
……どなたか! どなたか、お願いです! トシェリー様に説明をっ。
アロスは訴えるように女達を見ようとしたが、顏は何度も床に打ちつけられ、視界が霞んでいる。身に覚えのない言われに困惑し、涙を流した。
……トシェリー様、トシェリー様っ! 私は、貴方を。
意識が遠のいても、激痛が眠らせてくれない。それでも、望みがあった。どうにか意識を手放さずに、救いの手を待っていた。
親友の、ユイがいる。
彼女がきっと真実を伝えてくれるはずだと、待ち続ける。それまでの辛抱だと、必死に耐えた。アロスは無意識でユイを探すように手を伸ばした、その双眸には何も映らない。頭部からの出血が瞳に入り込み、視界を覆い尽くしている。様々な衝撃を小さな身体に受け、気力で保っていたが限界だった。
……ユイちゃんっ!
ユイは、黙秘していた。救いの手を差し伸べることはなかった。笑いを必死に堪えているミルアの後方で、無表情で暴行されているアロスを見ていた。
アロスが伸ばした腕は、力なく床に落ちた。
「誰か! 誰か、この阿婆擦れの間男を知っている者はいないのか!」
絶叫するトシェリーに、何事かと駆けつけた宦官らは目を疑った。血を吐いて蹲っているアロスと、狂気の沙汰で暴行を加え続けるトシェリーに面食らう。
ミルアは舌打ちした、その宦官らは自分の息がかかる者ではない。長引けはこちらに不利だと判断し、淡々と見ていたユイを掴むと引っ張り出した。
「お、王よ。一体何が……」
「貴様かっ! 貴様がっ! 男である証もない分際で、よくもっ」
声をかけてきた宦官に食い入るトシェリーの前に、ユイが飛び出す。怪訝に睨みつけられたその瞳に、大きく身体を震わせながらも土下座した。やるしかない、ミルアからの無言の命令である。背けば、アロスと同じ目に遭う事は知っている。
「トシェリー様、ご報告が遅れてしまい申し訳ありません。私は見ました、外から来る男で御座いました。見間違いかと思ったのですが」
「外から、だと!? 香を身に纏うほどの貴族がここへ来る理由が解らんっ! お前は誰かを庇っているのではないのか!?」
ユイは、死を覚悟した。咄嗟の出まかせは失敗だったと後悔し、唇を震わす。
しかし、ユイ
「トシェリー様、僭越ながら申し上げます。私も見ました、ユイの言う通りで御座います。トシェリー様がその娘を買い取り溺愛されていることは、評判のようで。一目見ようと興味本位でやってきた男だと思われます。ですが、私が見ただけでも三人ほど。御逢い出来たらお伝えしたかったのですが、なかなかお声がかからなくて。申し訳ございませんでした」
「私も見ました! なんて恐ろしい事をと思いました!」
「その子は、トシェリー様の御厚意を踏みにじる卑しい者なのです」
ミルアが堂々と発言した為勢いづいた女らは、口々に嘘を並べたてた。しまいには、アロス付きの女官に侍女らもそう発言する。
嘘も、真となる。
「ま、間男は一人ではないと言うのかっ。……この、汚らわしい雌豚がっ」
まさかアロスが嵌められているなどとは思わないトシェリーは、演技する女達の手中に落ちてしまった。女官らに「アロスの好きにさせるように」と伝えていた為、言及せずに信用した。
疑心が肥大するのは、容易い。
そこへ、ミルアが待ち望んだ宦官らが駆け付けた。炯々とした瞳で彼らを見やると、大きく頷く。
「トシェリー様、不審な男を捕らえました! 後宮内に潜伏しておりました」
トシェリーの前に投げ出された男は、手足を拘束され、猿轡を噛まされている。身なりは良さそうだが、顏はお世辞にも整っているとは言い難い。
「ほぉ、このように顔の造作が乱雑な男が好みか」
男は、ミルアの指示を受け宦官らが市場で買ってきた奴隷男だった。指示通り同じ香を身に纏わせ、貴族の衣服を着せられただけである。
「まぁ、趣味が悪い」
「トシェリー様では美し過ぎたのでは? 所詮、下賎でしょう?」
徐々に増える偽りの証拠に、女達は沸き立つ。滑らかに口が動き、誹謗中傷を繰り返す。
トシェリーはアロスの髪を掴んで持ち上げ、男と対面させた。
「お前の男は、見つかってしまったぞアロス。さぁて、どうしてやろうか」
何度も頬を殴打すると、アロスの歯が床に転がる。頬は紫に染まり、美しかった顔立ちは今は化物のごとく腫れ上がっていた。腹を容赦なく蹴り上げ、トシェリーは狂気の笑みを浮かべる。
気味が悪い、と女達は視線を逸らし、衣服の袖に隠れて笑った。自分達の計画は、完璧だったのだと酔いしれる。
「さて、腐った獣のような瞳で、愛する男が死ぬ様を観るがいい!」
言うなり、トシェリーは用意された男の首を一刀両端した。弧を描いて遠くへ頭が転がると、女達が静まり返る。
「おい、観たか。観ていたんだろうな!?」
微動だしないアロスを踏みつけ、トシェリーは首元に剣先を突きつける。
「同じ様に首を刎ねてやろうかとも思ったが、やめた! 地獄で一緒になっても胸糞悪い、お前は流刑にしてやる。オレを裏切った事を後悔し、生き地獄を味わうがいい! 誰か、罪人の印を持て」
雄叫びを上げ、アロスの右手首を踏みつけた。骨が折れたのか、いや砕けたのか、鈍い音がした。
悲鳴を上げることすら出来なかったアロスの痛みなど、誰も解らない。ボロ雑巾の様に、そこに転がっている。
……なぜ。
アロスは、考えることをやめた。何がいけなかったのか、いや、何が起こったのか全く分からないのだ。
そうして、昏迷状態だったものの、頭部に焼けるような激痛が走ってしゃがれた悲鳴のようなものを喉の奥から出した。
「アアアアア!」
それは、人間ではない生き物の断末魔の様だった。
ブルーケレンでは、罪人に焼印を刻む。アロスは、トシェリーの手によって『大罪人』の印を額に刻まれた。火で熱された灼熱の鉄棒は、髪をも焼く。
「ははっ、その腐った性根に相応しい、醜女になったじゃないか! もうこれで、どんな男も寄らんだろうよ」
ジュウジュウと音を立てて、皮膚が、肉が焼ける。
唾を吐き捨て立ち去ったトシェリーを慰めようと、ここぞとばかりに女達が群がった。今ならば、取り入ることが出来る。
アロスは囚人を収容する極寒の地へ運ばれることになったが、その様子をユイが冷めた瞳で眺めていた。
「さようなら、お馬鹿ちゃん」
そう呟くと、ゆっくりと破顔した。
痛みで気を失っていたアロスだが、それでも涙を流した。哀しくて、痛くて、辛くて、怖くて、泣くことで感情を訴えた。親友のユイは何処へ消えたのか、優しかった綺麗な女達は何故突然嘘を言い始めたのか、そして愛しいトシェリーは。
起きては痛みで気を失い、虚ろな瞳で身体を引き攣らせては血を吐いた。
雪が降りしきる中、転がされて荷台に乗せられた。その馬車に幌はあったものの、毛布はなく、身体中が凍傷し、指先は壊死した。
……トシェリー様、どうか、私の話を聞いてください! 私は、私は本当に何も知らないのです!
女達の悪意を知らず、アロスはただ呻き続ける。
そんな中、腹部に激痛が走った。腹が引き裂かれそうな衝撃に、大きく仰け反る。
「おい、罪人の様子が変だぞ?」
「まぁ死んでもどうってことないだろう。国王殺害を企てた奴らしいからな」
「こんなに小さいのに? くわばらくわばら。一応状態を記載しておくか、容態は……ん?」
「たまげたな! 流産だ」
「清純を装って国王に取り入った阿婆擦れらしい。王族に不埒な態度をとれば極刑だが、こうして流刑地行きとなったのは幸か不幸か。多くの男を手玉にとり、性交を繰り返していたとか。父親もそうなると誰だか解らんな……だがまてよ、父親が王の可能性があるのでは?」
「だなぁ。しかし、こんな犯罪者の女から産まれた子では王とて喜ばないだろうよ。『囚人アロス:流産”』と。やれやれ、運ぶの面倒だなぁ、死んだらその辺りに捨て置けばよいかねぇ。死刑にしてくれればよかったのに」
運が良いのか、悪いのか。アロスは息絶えることなく、瀕死の状態で流刑地に到着した。