壊れた忘却の花冠
文字数 4,850文字
トビィは本を無造作に棚へと押し戻した。
適当な位置に収められた本を見て、アサギが口を開きかける。困惑して眉を顰めた、元の位置に戻さねば天界人に怒られるのでは、と思ったのだ。前回の件もあり、お咎めは免れないのではないかと。しかし、緊急事態らしいので、あとで直せばよいと思い直し、蟠りを感じながらも手を引かれて足を踏み出す。
『…………』
途端、身体がクンッと引っ張られた気がした。引っかかるものなどなかった筈だが、不思議に思い足元を見る。
何かが落ちている。
琥珀色した床に、異物はくっきりと浮かび上がっていた。目立つそれを無造作に掴むと、確認する間も無くスカートのポケットへと押し込む。
「どうした、アサギ」
「いえ、何でもありません。いきましょう」
会釈したデズデモーナと共に、三人は足早に図書室を後にする。
『貴女が願いを間違えなければ。今のまま願い続ければ、きっと叶うはず』
『貴女で最期。貴女だけが、希望。彼と共に生き抜きたいのなら、どうかその願いを変えないで。何があっても、忘れないで。憶えていて、間違えないで。どうか、信じて』
アサギが見つけ、トビィが棚に戻した一冊の無題の本が、儚く煌きその役目を終えたかのように一瞬にして消える。嘆き悲しむ少女の声が、図書室の中で静かにこだまする。
慌ただしく出て行った三人を見送った天界人は、誰もいない筈の室内から声が聞こえた気がして顔を見合わせた。不審に思い訝って扉を開くと、様子を確認する。
当然、誰もいない。本日の入室者は先程の三人だけだ。人気のない室内に静寂な空気が漂っている。
しかめっ面をして、天界人は顔を見合わせた。
「アサギ様、出て行かれたよな?」
「あぁ」
「今……中で、アサギ様が誰かと会話してなかったか?」
「そんなわけないだろ。お前も見ただろ、トビィ殿に連れられて出ていく姿を」
「だよなぁ、でも、声が聞こえた気がしたんだ。『間違えないで』だの……誰かに訴えているような声が」
「確かに聞こえたような気がしたけど、有り得ない。幻聴さ。アサギ様の声は耳に心地よいから」
キツネにつままれたような顔をして、互いに乾いた笑い声を出す。空耳だとこじつけた。
歩きながら、デズデモーナは淡々と二人に説明をした。信頼を寄せているトビィとアサギに視線を投げると、口元に笑みが零れる。
人間の姿にならねば、こんなことは出来なかった。大人しく外で待機しているだけの日々とは違い、全てが真新しい。クレシダは不愉快そのもので未だに人型になることを渋っているが、デズデモーナにとっては幸運だ。敬愛する二人の役に立てるのだと思うと、嬉しさが込み上げる。
けれども、この場で笑うことは不謹慎だと思い、緩んでいた頬を引き上げる。
「惑星チュザーレにある港町カーツが、竜の奇襲を受けているとのことです」
口にしてから、複雑な表情を見せる。二本足で歩いていると忘れそうになるが、自分も竜であることに気づいて、むず痒く感じた。
「アーサー殿の報告によれば、その竜は本来カーツより遙か遠くの山岳にしか住まない孤立した種で、人前に姿を現す事は稀だそうです。よって、何かの前兆ではと警戒していると。そこで我らが人間の救出及び調査に出向くことになりました」
聞き終えたトビィが盛大に吹き出し、笑った。
こんな状況でも笑ってよいのだと解釈したデズデモーナだが、トビィの笑いは皮肉をたっぷり含んでいる。
「そこまで調べたなら、アーサーが赴けばいいのにな?」
「御尤もです。しかし、アーサー殿も王宮のお抱え賢者故に簡単に身動きが取れないのでしょう」
「面倒な。……アサギ、やれるか?」
ポケットに押し込んだ物を取り出そうとしていたアサギは、トビィに声をかけられて慌てて押し戻した。
「大丈夫です、任せてください」
「無理はするな。デズ、アサギは任せる。全力で護れ」
「心得ております、主。それで、その竜ですが、非常に外皮が硬い種で、ワイバーンと呼ばれているとか。ただ、敵意を持たなければ襲ってこないので、未だ詳しい生態が明らかになっていないそうです」
デズデモーナが重々しい扉を開き、アサギとトビィは手を繋いだまま中へと入る。
中では神クレロが、アーサーと交信を行っていた。嬉しそうに片手を上げて挨拶するが、トビィはそれには目もくれず、転移装置の前で大人しく待機中のクレシダへと足を向ける。
人型の為、不服そうに俯いているクレシダの肩を笑いを噛み締め宥めるようにトビィは軽く叩いた。
「オフィは?」
「置いてけぼりなのがかなり不満のようですが、どうにもなりませんので下界で待機中です」
トビィと共にある竜三体で、水竜オフィ―リアだけは人型になれない。アサギが彼に術を施していない為だ。彼も一刻も早く人型にしてやりたいが、生憎変化の杖を持ち出すことが出来ない。
なんとかせねばと、アサギは唇を噛み締め俯く。杖を宝物庫から持ち出すことは不可能ならば、方法は一つしかない。
「アサギ様、トビィ殿! お待ちしておりました」
気づいた天空人が慌てて敬礼をし、三人を誘う。
憔悴しきった顔で駆け寄ってきたクレロに胡散臭そうな視線を向けたトビィは、面倒そうに肩を竦めた。
「よく来てくれた、多忙なところすまない」
「説明はデズから聞いた。長居は無用だ、行って来る」
足早に通り過ぎようとしたトビィに、焦ってクレロは話しかけた。
「油断するな。アーサーからの情報によると、どうにも何か絡んでいる気がする」
「ワイバーンは、本来ならば人を襲わない生き物と聞きました」
アサギが神妙な顔つきで言うので、クレロは首を傾げた。デズデモーナにトビィを呼んでくるよう頼んだが、アサギには頼んでいない。
「アサギは行かずともよいよ、図書室にいたのだろう? 読みたい本があったのではないかね」
怪訝に聞いていたトビィは、腕を組んでクレロを睨み付けた。
アサギも眉を顰め、多少苛立った声を出す。
「あのー……信用されていないようですが、私は一応勇者です。襲われている街があるのに無視は出来ません、本はいつでも読めます」
どう考えても優先すべきは街の救出だ。流石にクレロが何を考えているのか分からず、懐疑の念を抱いた。
「いや、しかしだな」
「オレが共にいるのだから、問題はない。そもそも、アサギの意思を尊重しろ」
まだ引き留めようとするクレロに、トビィは「鬱陶しい」と吐き捨てると周囲を凄んだ。その気迫に、多くの者は後退し距離をとる。見えない刃を突きつけられているようで、肝が冷える。
「き、気をつけて」
転移装置が淡い光を放って揺らめくと、冷めた瞳で一瞥したトビィを先頭に四人の姿が描き消えた。
天界人に安堵の溜息が広がり、微妙な空気が流れる。たかが人間に何を恐れるのかと叱咤しつつも、あれは無理だと自身の行動を肯定する。
トビィは人間だ。しかし、その魂は何か別のモノである気がした。そうでなければ、あそこまでの力量を発揮する人間の存在を認める事になる。
人間の繁殖力は、天界人を上回る。類まれなる力を持った人間が時折現れることは長い歴史の中で見てきたが、トビィは格別だ。有り得ない存在と言っても過言ではない。
「よいのですか、クレロ様。アサギ様を行かせてしまって」
「止めたとしても、あの子の事だから突っぱねて行ってしまうだろうし」
頭をかきながら苦笑するクレロに、控え目だが冷ややかな声で追及するソレルの顔色はくすんでいる。
「ですが、……行き先はカーツです。
その声にクレロの表情が強張った。眼を大きく開き唇をわなめかせる横顔を見つめ、ソレルは唄う。
「何もなき宇宙の果て 何かを思い起こさせる
向こうで何かが叫ぶ 悲しみの旋律を奏でる
夢の中に落ちていく 光る湖畔闇に見つける
緑の杭に繋がれた私 現実を覆い隠したまま
薄闇押し寄せ 霧が心覆い 全て消えた
目覚めの時に 心晴れ渡り 現実を知る
そこに待つのは 生か死か
……この唄を吟ずる娼婦がいる街でございます。クレロ様、お忘れですか? 彼女との接点が出来てしまいました、他惑星だと放置しておりましたが」
若干穏やかだったソレルの口調が後半急変した。
口元には緩やかな笑みを浮かべているが、冷徹な怒気を微かに含んでいるそれに、その場に居た天界人は血が凍る思いだった。ソレルを本気で怒らせると下界に落雷が轟く、そんな言われがある彼女である。
聞き終えるや否や、顔色を変えたクレロは近くにいた者に叫んでいた。
「アサギを呼び戻せっ」
「手遅れです。ですからトビィ殿だけを呼んだのに……まさかアサギ様が一緒にいるだなんて。妙な偶然もありますこと。いえ、必然やもしれません。それで、あの娼婦は何者です? 本当は、すでに掴んでいるのではないのですか?」
ソレルからの射抜くような追及に、クレロは頭を抱えてその場に蹲る。重苦しい空気に耐えかね、天界人らは顔を見合わせることもなく静かに退室した。ここにいてはいけない気がして、配慮した。
その場には、クレロとソレルだけが残された。
惑星クレオ、及び惑星チュザーレより遠い場所に浮かぶ惑星マクディ。
花畑というには貧相な場所で、一人の少年がしゃがみ込んで何かを作っていた。紫銀の髪が時折揺れる。
「ちくしょー、上手く出来ない」
嘆いてトランシスは花畑に転がった。灰色の空を遠目に見ながら、溜息混じりに焦点を作りかけの花冠に合わせる。アサギが喜びそうだからこうして作ってみたものの、上手く出来ない。そもそも、草花が圧倒的に足りない。
子供の頃、古ぼけた本で見た花の冠。それをアサギに渡せたら、喜んでくれそうだと思って作りに来た。
「手先は器用だと自負してるんだけど」
次にアサギが会いに来る日までに、上手く作れるようになりたかった。しかし、何度も練習をしていては花が消える。
可憐な濃い桃色の花が、生温かく汚染された空気に揺れている。
「今、何してるのかなー?」
愛しい恋人を思い浮かべて笑うのだが、不意に不安そうに眉を顰めた。
アサギの隣にいられない時間が、酷く怖い。本来トランシスがいるべきはずの位置には、常にトビィがいる。
トビィ。
現時点で、最もアサギに近い男。
アサギの剣の師匠であり、兄である男。兄といっても血の繋がりはなく、勝手にアサギが「お兄様」と親しみを籠めて呼んでいるだけ。
アサギは気がついていないようだが、トビィはアサギを妹とは見ていない。トランシスと同じように、愛する女として見つめている。
そんなトビィは、トランシスにとって不愉快で邪魔な存在だった。存在自体が腹立たしいのは、お互い様だというのも解っている。
アサギの恋人が誰か、それは理解している、信じてもいる。けれどもトランシスがアサギと会えない時間は、トビィが占拠しているという事実に苛立つ。
それに、不安でもあった。二人の仲を阻害しかねない。考えれば考えるほど吐気を催すほど怒りに打ち震え、自我をコントロール出来ず手にしていた物を思い切り引き千切った。
「うっわ! あー……」
我に返れば、作りかけの花冠が無残に壊れている。
壊したのは自分だ、手の中でゴミ同然になったそれに「ちぇー」と唇を尖らせ、花冠を放り捨てた。
「あーもー! どうしてくれるんだよ、トビィのせいだよ」
花は残り僅かだ、練習など出来ない。アサギと逢える前日に本番として作るしかないが、上手く出来る自信はない。頭を掻き毟りながら、歯軋りして叫ぶ。
「トビィ、お前邪魔なんだよ。オレの前から消えろ、アサギに近寄るな」
土を爪で引っ掻いた。
「オレとアサギしかいない世界に行きたいなー。二人だけで暮らしたい、二人だけでいい、他には何もいらない。そうしたら、何も考えなくて済むのに。アサギは何処にも行かない、オレだけを見て、オレだけのものになってくれる」
壊れた花冠が薬品のする風に頼りなく揺れ、彼の本心を聞いていた。