外伝6『雪の光』17:詭謀
文字数 4,445文字
「あの子、一体何を書いて……」
飛び込んできた文字を見て瞳を丸くしたユイは、それを握り締めてミルアのもとへ走る。まだ茶を飲み菓子を食べ談笑している姿を見つけると、強張った顔つきで近寄った。
「あの、ミルア様」
「あらユイ。駄目よ、トシェリー様に勘付かれては困るのだから、時間を把握しておかねば」
すでに先程の騒動を知っているようで、尖った声でそう言われたユイは唇を噛んだ。自分は安全圏にいて、暢気なものだと心中で悪態をついたが、懸命に感情を押し留める。
「申し訳ございません、以後気を付けます。それで、ミルア様。あの子が書いていた手紙はこちらになります、ご確認ください」
「確認?」
面倒そうに唇を尖らせたミルアは、ユイが差し出した手紙をむしり取った。そして、眼を落す。
「……何これ?」
「解りません。どなたか読める御方はいらっしゃらないかと思い」
そこに書かれていた文字を、ここにいる女達は知らなかった。この後宮で読める者がいるとすればガーリアだが、生憎彼女らの輪から外れている。
アロスは、まだブルーケレンの文字を習得していない。その為、母国の文字で手紙を綴った。トシェリーが読めるのかどうかは解らない、しかし、国王である彼ならば翻訳を誰かに頼むだろうと思ってのことだった。
「文字、よねぇ?」
低く唸ったミルアの近くに、女達が近寄って覗き込む。しかし、誰も解らない。
「これ、一体何処の文字? そもそも、あの小娘は文字を知っているの?」
それは明らかに言語を書き記すための記号であり、落書ではない。
アロスの正体を知らぬ女達は、粗野な小娘に手紙が書けるはずがないと思い込んでいた。
一人の女が、喉を鳴らす。皆が思っているようなただの奴隷娘ではないと勘付いたものの、口にできない。一定の教養を持っている娘なのだと知ったところで、今更どうにもならない。
「ミルア様、如何致しましょうか」
押し殺したような声でユイが告げると、ミルアは退屈そうに手紙を突き返し、「捨てちゃえば? 適当に言い訳作って」と無責任な事を言う。硬く拳を握り、
「承知しました」
とにこやかな笑顔を見せたユイは、早々に踵を返した。
そうして、ミルアの部屋の火鉢の中に手紙を捨てる。
「なんでもかんでも、全部私に丸投げっ! なんなの、あの女っ!」
ミルアの寝台に荊をばら撒きたい、何も知らずに寝転がって、痛みに慌てる姿を見てみたい。しかし、ユイは耐えた。犯人が誰かなどすぐに露見する、一時の感情に流されるのは得策でない。
我慢ならないほど不快だが、燃やした手紙の言い訳を考えた。
数日後、アロスを招いたユイは、悲痛な切迫した口調で告げた。
「保管しておいたお手紙にね、私の不注意でお茶を零してしまったの。ごめんなさい。ほら、新しい紙よ。また書きましょう」
アロスは気落ちしているようなユイに頷き、大丈夫だと言わんばかりに笑顔を見せる。そして、用意されていた紙に再び文字を綴った。インクが乾くと、想いを籠める様に指でなぞる。
楽しそうに机に向かっている姿を軽蔑した眼差しで見つめているユイは、足を踏み鳴らす。同じ場所に二人きりでいることが、酷く苦痛だった。
「アロスちゃん、私はお茶を淹れてくるね」
耐え切れずに、口実を作って部屋を出る。
ミルアの部屋なのに、アロスが来ると空気が一変する。何処となく甘く、そして清冽な空気が漂う気がして、ユイは苦手だった。いつもは、陰鬱でピリピリとした針のむしろのような空気が流れているのに。
「そんな空気を好む私も、おかしいのかな」
ぼんやりと呟いたユイは、喜色満面で駆け寄ってくる親しい女に気づく。
「ユイ!
今までにない晴れ晴れとした笑顔を見せたユイは、手を叩いてはしゃいだ。これでもう、アロスに関わらなくて済む。
「本当!? 嬉しいっ!」
「早速行動に移しましょう。大至急連れて来て」
ユイは羽が生えたように軽くなった身体で踵を返すと、アロスを迎えに戻った。
アロスは、粗方手紙を書き終えていた。幾度か読み直し、足りぬ想いはないかを確かめていた。
「アロスちゃん、朗報よっ!」
初めて聞くユイの弾んだ声に、アロスは驚いて振り返った。そして、強引に何処かへと連れていかれる。
「うー、あ」
手紙がまだ途中だ、と告げたい。しかし、ユイの力は強く、振り払えるものではなかった。諦めて大人しくついて行くと、厨房に辿り着く。
館に居た時は、使用人らに混ざって料理をしたものだった。勝手は違うが懐かしくて、大きな瞳をくるくると動かし見渡す。
「アロスちゃんのことなら、なんでも解るわ。私達、親友だもの! ねぇ、トシェリー様を喜ばせたいでしょう? お菓子を作りましょう。ほら、材料は用意したわ!」
そう言われ、アロスは涙を浮かべる。
「アロスちゃんが嬉しいと、私も嬉しいし」
はにかんで微笑むユイに、アロスは鼻をすすって抱きつく。これが“親友”という尊い存在なのだと認識し、胸の奥が熱くなった。
……お手紙も一緒に渡せば、きっとトシェリー様は喜んでくださる!
涙を零したアロスに、ユイは苦笑した。
「あ、あらら、アロスちゃんったら! 泣かなくてもいいのに。さぁ、早く作ろう」
先日、トシェリーを待たせてしまい忠告を受けたアロスは、これで少しでも償いが出来ればと意気込んだ。何を作るのか解らなかったが、ユイや女達が手伝ってくれたので安心だった。こうして皆でわいわいと料理をしていると、心が安らぐ。
……とっても、愉しい! そうだ、お手紙に『お料理がしたいです』って書き足そう。一応、一通りは教えられたもの。
アロスは感謝で胸が一杯になり、一人一人の手を握り締めて微笑んだ。言葉を伝えられないので、態度で示そうとした。
女達は徐に微笑み返したが、アロスが背を向けた途端にすぐさま冷ややかな視線を送る。汚らわしいものにでも触れたように手を拭う女達は、大袈裟に眉を顰め床に唾を吐き捨てた。
「うふふっ」
「本当に馬鹿な子ね」
何も知らずに菓子を作るアロスを、女達は腐った卵の白味のように濁った瞳で睨み付ける。そうして、密やかに誹謗した。
「わぁ、とっても美味しそうな香り! 出来たね、アロスちゃんっ」
焼き上がった菓子を満足して見つめていたアロスに、突然一人の女が香水をふった。
「流行の香りよ。洗練されているでしょう?」
驚いて鼻を動かすアロスに、女がねっとりと囁く。
そう言われたものの、鼻の奥にツンっとする刺激を感じて苦手だと思った。
……大人の女性が好むものなのかな。私は苦手」
アロスは率直にそう思ったが、女の好意を無下には出来ないと深く頭を下げた。
女達はそれを見て、吹き出したいのを堪えるのに必死だった。それは、貴族の“男”が嗜む香である。
「アロスちゃん、私はお手紙を取って来るね。お菓子持って、先に行ったら?」
歩きながらユイにそう言われ、アロスは首を横に振った。手紙は途中であり、完成していない。だから、あれを渡すことは出来ない。そう伝えたくて眉を顰めると、焦りを抑えきれない声が遠くから聞こえる。
「またトシェリー様が捜しているわ! 早く!」
「た、大変! アロスちゃん、手紙は後日にして今はお菓子を!」
慌てふためきながら走ってきた女に、ニ人は蒼褪めた。
……どうしよう、言いつけを守らなきゃいけないのにっ。
菓子作りに時間がかかってしまったらしい。アロスは菓子を大事に抱えて、懸命に走った。
『オレを待たせるな』
先日トシェリーに言われた言葉が甦る。約束をしたばかりなのに、早々に破ってしまうことは許されない。勢いよく地面を蹴って走り続けると、心臓を踏みつけられているような痛みを覚えた。
喘ぐように先を見つめると、トシェリーが立っていた。
間に合わず、ついにここまで捜しに来てくださったのだと思ったアロスは項垂れた。しかし、懸命に走り続ける。
トシェリーの周囲には、女達が集まっていた。彼女らから注がれる視線に違和感を覚えたアロスだが、今はそれどころではない。多くの視線を浴びながらも、脳に酸素が足りず思考がまとまらない。
「ぅ、っ」
棒のような足を引き摺って、アロスは強張った表情でこちらを見ているトシェリーの前に立った。そうして深く頭を下げる。それから、瞳を伏せながら恐々と菓子を差し出した。胸が、轟くように跳ね上がる。
……やはり、怒っていらっしゃる。私が、言いつけを破ったから。
震えるアロスの手から菓子を受け取ったトシェリーは、紙に包んであった中身を取り出す。
「後宮で、菓子を焼いていたのか?」
頷いたアロスに小さく溜息を溢したトシェリーは、しげしげとそれを見つめてから、菓子を摘む。
「問い質したいことは、多々あるが」
トシェリーは、眉間に深い皺を刻んで告げる。しかし、贈り物は素直に嬉しい。多少口元を緩め口を開き、菓子を放り込もうとした時だった。
「トシェリー様、なりません! その菓子には毒が盛られておりますっ」
アロスの後方から、先程一緒に菓子を作っていた女達が怒涛の勢いで走ってきた。アロスを擦り抜けトシェリーから菓子を奪い取ると、それを床に捨てて足で踏み潰す。
一部始終を唖然と見ていたアロスは、突き刺すような視線に喉の奥で悲鳴を上げた。ぐるりと見渡せば、憎らしげに自分を見つめている女達に囲まれている。
先程まで共にいてくれた女も、何度も手を振ってくれた女も、頭を撫でてくれた女も、同じように足元が竦むほどの鋭利な視線を向けていた。その表情の、なんと冷たいことか。
アロスは、一歩後退した。けれど、後退したところで逃げられない。迷子の子供のように、蒼褪めたまま右往左往する。女達は皆、同じ顔をしていた。誰も、微笑んでくれなかった。研ぎ澄まされた刃物のような瞳に、胸を刺され抉られる。
「見てください、勝手に何か作っていると思って覗きましたらば、猛毒の実の欠片が落ちていたのです! まさかとは思いましたが……」
早口で捲し立てる女を一瞥したトシェリーは怪訝に眉を顰め、怒気を含んだ声でぶっきらぼうに一喝する。
「知らずに使ったのだろう」
冷ややかな声にも、女達は怯まなかった。口裏を合わせているので怖いものはなく、証拠はこちらが揃えている。
「いいえ! これは後宮の厨房にはございません。
「殺意? アロスが、オレに?」
眉間に指を添え瞳を細めたトシェリーに、女は大きく息を飲み込んだ。嘘だと判断されれば、殺されると覚悟した。怒気というより殺気を含んだその瞳を向けられ、後ろめたいことも手伝って視線を逸らす。
しかし、それでは疑われる。
けれども、萎縮した女に代わって別の女が前に出る。女達も、必死だ。もう、後には引けぬのだから。笑う為には、怖気ず進むしかない。
「男ですわ」