怒りの沸点
文字数 3,285文字
その為、校内でアサギの姿を見つけると逃げる様にして避ける。謝りたいのに、怖くて先延ばしにしてしまう。
結局、頼みの綱であるトモハル経由で様子を窺うことにした。あわよくば、助けてくれないかと切実に願って。
けれども、毎朝必ず顔を合わせるのに、切り出すことが出来ない。正義感の強いトモハルに全てを知られたら罵られることなど解りきっているので、億劫になる。あの澄んだ瞳は、全てを白日の下に曝す。
金曜日になって、ようやくミノルは窓を叩きトモハルに話しかけた。
気軽に出入りしていたトモハルの窓が、妙に遠い。部屋に上がることはなく、互いの部屋から会話する。上ずった声になるミノルと何処か冷めた雰囲気のトモハルの間には、今までにない緊張感が漂っていた。
「あのさ……アサギなんだけど、最近どう? いや、あんまり顔が合わせられなくてさ」
彼氏の台詞とは思えないとミノルも解っていたが、差し障りなく訊くにはこれしか思いつかなかった。
全てを知っているトモハルは、煮え切らない態度のミノルに怒りを覚えつつも感情を押し殺した。
「さぁ? 普通じゃないかな。何かあれば、明日訊いとくけど?」
トモハルから見れば、アサギは弱っている。だが、明るく努めている。ユキがアサギに聞いて事情を知っているので、二人で陰ながら見守った。
普通という単語に胸を撫で下ろしたミノルだが、顔を曇らせる。
「……明日?」
「あぁ、約束してるから」
さらりとトモハルは告げた。ダイキがアサギの弟を釣りに連れて行くので、トモハルとアサギも同行することにしたのだ。
しかし、過敏になっているミノルは突き放されたような言い方に
トモハルとアサギ、二人が並んでいる姿を想像したら釣り合っていて哀しくなった。嫉妬の念にかられ、皮肉たっぷりに吐き捨てるように叫ぶ。
「あぁ、アサギから俺の事聞いたのか? 何、二人は付き合うわけ? へー、やっぱりなぁ、互いに優等生様だもんなぁ! 案外……」
急に右頬に激痛が走った。
言葉が途切れ、呻き声が唇から漏れる。床に叩き付けられ、何が起こったのか解らず狼狽する。
トモハルが窓枠に足をかけ、ミノルを殴り倒した。本気の一撃だった。何処までもはぐらかし、小馬鹿にしたような態度に堪忍袋の緒が切れた。
久し振りに受けた重過ぎる痛みで、目が覚める。唖然と見上げれば、トモハルが涙目になっていた。その悲壮な表情に胸が痛む。
「付き合うわけ無いだろ! 俺達に恋愛感情はない、ただ、大事な仲間で友達なだけだっ」
悔しいと思ったが、あの日のアサギを思い出してトモハルは堪え切れず涙を流す。
「アサギはっ! 付き合っている筈の男に『彼女じゃない』とかふざけた事言われて、号泣してたんだ。ミノル何やってんだよ、見損なったぞ! アサギとプールに行く約束、お前がしたんだろ!? あの日、炎天下でアサギは待ってたんだぞ!? どうして他の女の子と一緒にメシ食ってるんだよっ」
息を荒げ憤慨しているトモハルを、呆然とミノルは見つめた。記憶が甦る、アサギの笑顔や泣き顔が走馬灯の様に流れ出す。それでも、かさついてひび割れている唇から、間抜けな一言が飛び出した。
「な、なんだよ」
ここまで問い詰めても自白しないミノルに、産まれて初めてトモハルは人を殺したいほど憎らしく思った。
「白を切るな! お前の彼女はアサギなのか、あの憂美って子なのか! どっちなんだっ」
「ど、どうして憂美のこと知ってるんだよ」
背筋から流れ落ちる多量の汗を感じつつ、ミノルは瞳を泳がせる。衣服が絞れるほど濡れてしまったようで、気持ちが悪い。乱れた鼓動がトモハルに知られてしまうのではないかと、焦っていた。
トモハルは、一呼吸おいてから静かに告げる。偽りもなく、隠しもせず。
「……アサギと見てた。ミノルがその子とキスするトコ」
ミノルが、大きく息を飲んだ。数時間にも感じられたその一瞬の間に、逃げる糸口を探して反撃の言葉を掴みとる。
「あ、あぁ!? どうして二人が一緒にいるんだよ! ほらみろ、お前らだって俺に隠れてこそこそと」
トモハルは、幻滅した。まさかここまで往生際が悪いとは思わなかったのだ。
「違うっ! 偶然一緒になっただけだっ」
「信じられないねっ、あー、あー、そーですかー、やっぱりお前ら」
「いい加減にしろっ!」
トモハルの絶叫が響き渡る。
鬼のごとき形相に、ミノルも口を噤むしかなかった。
「頼むよ……。ミノルが誰と付き合おうと、そりゃお前の勝手だよ。好きな子と一緒にいればいいと思う、でもそれは一人だけにしろよ。だけど、アサギは……。お前と付き合ってるって、あの瞬間まで思ってたんだ。残酷にも程があるだろ? 約束すっぽかされた帰路の途中で、違う女の子と愉しそうに遊んでいるお前を見てさ。あの時お前、何を言ったか、何やってたか憶えてるか? 全部アサギ、聞いてたんだ。なんとか視界は遮ったけど、声は……多分聞こえてた」
トモハルが床に崩れ落ちる。
嗚咽を上げ泣いているその姿に、ミノルは大事な人を二人も傷つけてしまったことに気づいた。取り返しのつかないことをしてしまった。
「ぅ、ぁ」
震える足で立ち上がる。項垂れているトモハルが、涙で霞んで見えない。
鼻を啜り、衣服の裾で涙を拭いたトモハルは、ミノルに背を向け胡坐をかいた。頭部が下がり、その背中が小刻みに震える。
「謝って来い。お前の口から彼女の事をきちんと説明するんだ」
「え、お、俺は、俺」
「きっと、アサギなら赦してくれるよ。お前が誰と付き合っていても、今まで通りに接してくれるさ。あの子は、
「え、いや、その」
トモハルの口調からすると、本命は憂美だと思われている。それは違うと否定したいのに、ミノルにはそれすら出来なかった。口が思うように動かない、何を言っても間抜けな言い訳に聞こえてそうで、言葉が出てこない。
「でもさ、ミノル。あの憂美って子、つい最近まで彼氏がいたんだ。お前も知ってる隣の学校の六年、沓野だったかな。何度かサッカーの試合で対戦してるから、顔を見れば解ると思う。ソイツがアサギに一目惚れして、憂美を振ったんだってさ」
トモハルの口から、遣る瀬無い溜息が零れた。
「解るか? お前、あの子の腹癒せに使われたんだよ。どうしても態度が気になって、俺、調べたんだ。明らかに挑発的な態度とられたんでね。あの子は、俺とアサギが見ていることを知っていた」
「……っ! クッソッ」
ミノルは、部屋を飛び出した。
階段を下りていく音を聞きながら、脱力したトモハルは床に寝転がる。
「頼むよ、ミノル。もうアサギを傷つけないでくれ」
切に願い、祈る。
ミノルは転がるようにして家を飛び出すと、迷うことなく自転車に跨った。
「アサギ!」
名前を呼んで、猛然と漕ぐ。信号も無視し、何度も危険な目に遭い、怒鳴られながらアサギの家を目指した。
その途中にあるコンビニの駐車場を横切れば、もうすぐだった。
「あれ、ミノル君だぁ」
甘ったるい声がした、一気に鳥肌が立つ。
もう二度と聞きたくない声だ、耳が拒否して吐き気がする。止まることなく、視線も投げかけずにミノルは怒鳴りつけた。
今は顔も見たくない、この声は憂美だ。
「うっせぇ、どブスっ! 二度と面見せんなっ」
後方からぎゃーぎゃーと喚き散らす数人の少女達の声が聞こえたが、無視する。罵倒されても構わない、嫌われたほうが楽だ。
そもそも、互いの間に恋愛感情などなかった。
憂美にとっては復讐の材料でしかなく、ミノルにはただの埋め合わせでしかない。何故、隠された思惑に気づけなかったのか、自身に腹が立つ。
今は、アサギ以外のことなど考えられない。手放してはならない、護りたい存在だ、笑顔を見ていたい大事な相手だ。
二度と間違えない、謝って気持ちを伝えたい。