甘い痛み
文字数 3,656文字
トランシスと離れたアサギは、桃色の溜息を吐いた。少しだけ、胸が痛い。
「か、彼氏ができました。年上の……出逢ったばかりの人だけど」
嬉しいのに、戸惑う。ミノルに現実を突きつけられ、このような甘く痺れる感覚とは暫く無縁だと思っていた。
「ま、まだまだ分からない人だけど、とっても、かっこいい人でした」
今のが現実に起こったことなのか疑わしく、頬を抓る。
「いた、い」
痛いので、夢を見ていたわけではないらしい。
「キ、キスをしてしまいました」
ミノルと憂美がキスしていた光景が一瞬浮かんだが、頭を振って忘れる。
唇にそっと指を添え、ぼうっとして瞳を細めた。ここに、男の唇が先程まで触れていたと思うと、身体中が燃えるほどに熱くなる。頬を手で覆い隠し、照れくささに耐える。
心と一緒に身体も軽くなったようで、跳躍し風に舞うように樹冠へと飛び移る。頼りない足場ながらも、身体は安定していた。
地上を見下ろすと、トランシスがこちらを見ていた。
手を大きく振って、「また!」と叫んだ。
見送られることは、幸せな事だと思う。しかし、忽然と消えてしまって怪しまられたり、不審がられたり、嫌われたりしないか不安になった。受け入れてもらえるかどうかが、怖い。明らかに自分は、得体の知れない者だ。
キィィ、カトン。
「また、来ます。すぐに、必ず、絶対」
アサギは真剣にトランシスを見つめながら、胸の前で手を握り締める。
「クレロ様の、お城へ戻ります」
誰かに言い聞かせるように、そう呟いた。
身体がゆっくりと浮かび上がる感覚に瞳を閉じ、身を委ねる。確信した、戻れると。
暖かな空気に包まれ口元に笑みを浮かべたアサギは、何処かへ流されていく。きっと、このまま見慣れた城内に到着出来るだろう。
――苦しい、あぁ、苦しい、苦しすぎて、耐えられない。もう、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
微睡みの中で、そんな声が聴こえた。
慌てて双眸を開くと、漆黒の闇に浮かび上がる幾つもの青白い光が頬をすり抜けていく。アサギは、思わず息を飲んだ。
――あぁ、苦しい、苦しい。
――身体が、焼け焦げ引き裂かれる。
前方と後方から聴こえた声に、アサギは数回振り向き声の主を探した。目を凝らすと、霧によって遮られていたものが浮かび上がる。
現れたのは青く美しい惑星と、ドス黒く燃えるような深紅の惑星。
言葉を失い、身体が停止する。
――アサギ様。
――アサギ様。
名を呼ばれたので、仰け反った。何かに身体が絡め取られる気がして、必死に腕と足を動かし唇を噛み締めると、瞳をきつく閉じて耳を塞ぐ。
その声を聞いていたら、身が引き裂かれそうな気がした。
――アサギ様、どうして貴女は。
――アサギ様、貴女の罪は。
「アサギ様! 一体何処へ行っていたのです!」
耳元で叱咤する声に飛び起きたアサギは、周囲の顔を見て安堵の溜息を漏らした。大きく肩で息をしながら、力なく笑みを浮かべる。目尻を吊り上げたソレル他、天界人たちに囲まれていた。
身体中に粘着ある嫌な汗が吹き出していた、気持ちが悪くて身震いする。衣服がべっとりと身体に密着している為、先程のような夢を見たのだろうか。
全身が怠くて、重い。
「ご、ごめんなさい。クレロ様に杖の件を謝りたくて、お会いしようと……。でも、お姿が見えなくて、それで、えっと」
アサギは困惑し、瞳を泳がす。
見知らぬ場所へ行っていた、と告げたところで説明が出来ない。不自然に口ごもり、戸惑い俯く。
そんな様子にソレルは大袈裟に溜息を吐くと、冷たく言い放った。
「しっかりしてくださいまし。確かに貴女様は優秀な勇者様です、クレロ様にも一目置かれている存在。ですが、身勝手な振る舞いはその身を滅ぼすことになると、肝に銘じなさいな。子供だからでは、通用しませんよ」
恐縮して、か細くアサギは頷く。
「はい……ごめんなさい。あの、それでクレロ様はどちらに?」
「杖の件でしたら、私が謝罪しておきました。お咎めはありません、速やかにお引き取りくださいませ」
「そうですか、ごめんなさい。ありがとうございました、お手数お掛けしました。あの、それから……みんなは?」
「人間界で火災が起きた場所へ出向きましたよ」
「そうですか、合流します」
しかし、言いながらアサギは足元をふらつかせた。
「いえ、本日はもうお帰りなさい。トビィ殿には伝えておきます。顔色も悪いようですし」
「そう、ですか」
しゅんとしたアサギだが、確かに身体が気怠い。見知らぬ惑星へ移動したことによる負荷だろうか。言葉に甘え、深く腰を折って受け入れる。
「ありがとうございます。宜しくお願いします」
「何かあれば、御呼びしますので」
「はい」
居心地の悪さも何処となく察し、すごすごと地球へ戻る。確かに、反感を買って当然だ。
「ただいま……」
「おかえり、アサギ。勇者のお仕事が大変そうだけど、大丈夫? 危ない事はしていない?」
「うん、大丈夫。ただ、とっても疲れた気がする」
「顔色が悪いものね。あとでお粥を作りましょうか?」
「うん! 少し、寝てるね」
母にも指摘されたので、顔色の悪さを自覚した。安心できる自宅に戻り、張り詰めていた緊張の糸が解けたのだろう。睡魔も襲ってきた。どうにか自室に戻り床に座り込む。
「鏡……」
全身鏡に目がいったので、顔を見る。
「青い? 赤い?」
確かに、普段とは違う顔色である。色々あり過ぎて、顏の上で感情の絵具が混ざったように複雑な色合いになっていた。
「あれ?」
疲弊した顔を見ていたが、首筋に朱いものを見つける。四つん這いになって鏡に近寄ると、まじまじとそれを見つめた。
虫刺されではない、腫れてもいない。落下した際に木の枝がぶつかったのかと思ったが、指でその箇所に触れ思い出した。
赤面し、鋭い悲鳴を上げる。
「こ、これが噂のキスマーク!」
魔王ハイにも以前つけられているが、その時は気づいていなかった。
震えながら鏡を覗き込み、首を凝視する。
先程の熱い唇の感覚を思い出し、顔から火が出る勢いで真っ赤になる。鏡には、意地悪そうな笑みを浮かべたトランシスが映っていた。慌てて振り返るが、いるわけがない。
『アサギ』
「ふぇっ!?」
トランシスの幻聴が聞こえた。耳元で熱っぽく囁かれた気がして、その場に仰向けに転がり足をばたつかせる。天上を見つめながら、暫く深呼吸して落ち着こうとした。
けれども、出来ない。
横目で鏡を見つめ、赤い箇所に目をやる。鏡には、以前としてトランシスが映っているような気がした。含み笑いをして、すぐ傍に座っている。
耳元で、あの甘い声が聞こえる。
『おかえり、アサギ』
身体中から力が抜け、無理やり瞳を閉じた。髪を撫でられている気がする。頬を紅潮させながら、しばし幻影に甘えていた。
「ただいま、……トランシスさん」
その頬に触れようと腕を伸ばすが、触れられない。
手は、宙を掴んだ。
数回瞬きし、アサギは哀しげに苦笑すると深い溜息を吐く。
「大変、幻覚を見るなんて重症」
身体を反転させ、四つん這いで移動する。震える手に力を込めて進むと、本棚から読み慣れた漫画を取り出した。
「え、えっと」
“実録! 読者の恋愛体験”と見出しがついた厚い漫画本である。このシリーズが好きで、買い集めていた。タイトル通り、読者からの手紙をもとに漫画化したものだ。様々な漫画家が描いているので、個性が滲み出る描き方がしてあり面白い。
「た、確か、どこかに」
数冊取り出し、必死に記憶を辿る。
「あ、あった! これ! よ、よかった、大丈夫」
大きく息を吐き出し、胸の前で強く本を抱きしめると嬉しそうに笑う。
その本に収録されていた漫画に、このような内容のものがあった。
『彼氏と別れて、泣きながら街を歩いていました。偶然すれ違った男の人に、声をかけられました。無視して歩いたのですが、彼はついてきました。暫くすると、その人はハンドタオルを差し出してきました。私が泣いていたから、心配になったのだそうです。見ず知らずの人に、話を聞いてもらいました。その人は、私より年上でした。付き合っていた頃の彼氏より、真剣に話を聞いてくれてました。気づけば、彼のことが気になっていました』
ラストはこの二人が結ばれ、結婚する。
「よかった。出逢ってすぐでも、好きになってよいみたい! 大丈夫、大丈夫」
トランシスを思い出し、再び床に転がる。
漫画を抱きしめたまま、恥ずかしそうに「好きです、きっと」と呟いた。
瞳を閉じると、
「……初めて、
ただ、嬉しかった。幸せだった、満ち足りた。
彼にとっては他愛のない言葉だが、アサギにとっては何よりも重要で意味がある。それは全てを決定づける、大事なもの。
「うれしい、な。とっても、嬉しいな。言って、貰えた……」
アサギの瞳から大粒の涙が音もなく溢れ、頬を伝う。感涙に、咽び泣いた。
キィィィ、カトン、トン。