一度目と二度目の出逢い、真実はその先に
文字数 6,124文字
何処か穏やかな笑みを浮かべているようにも見える絶命したクーバーを見下ろし鼻で嗤った後、トビィはアサギへと近寄った。未だ健やかな寝息を立てているアサギに、安堵の笑みを零す。香りの効果で眠っているらしいが、あの吸血鬼の言うことを全面的に信用して良いものか。毒であれば一大事だ。
トビィはソファまでアサギを抱き上げて運び、そっと寝かせた。
額に手を添えるが、高温ではない。脈拍を計ってみるが、異常はない。
小さく溜息を吐いてからアサギの頬を優しく撫でると、徐に立ち上がった。
剣についた血液をシーツで拭い取り、鞘へと仕舞う。それから自身に先程の吸血鬼の血がついていないかを確かめた、多少衣服には付着したようで、眉を顰める。「汚らわしい、あとで洗濯せねば」と口走り、トビィはソファのアサギのもとへと戻った。
キィィィ、カトン……。
室内で、妙な音が聞こえた。訝し気に周囲の様子を窺うが、異常はない。
腰に下げていた水袋に、口を当てる。水を口に含むと、跪いてアサギの顔へと近づける。左腕で軽くアサギを抱き起こし、右腕で頬に触れながら唇を触れ合わせた。そこから舌を上手く使い、器用にアサギの口内へと水を移していく。慎重に、零れないように、丁寧に。アサギの体温を感じながら、ゆっくりと全ての水を注ぎ込んだ。
移し切ると唇を躊躇いがちに離した、しかし、惜しくなったのか再び口づける。
「……もう、離しはしないから」
小さく呟き、何度も口づけを交わす。触れるだけの口付けは、徐々に勢いを増す。形を舌先でなぞり、存分に味わってから軽く甘噛みをする。
トビィの腕の中で、小さくアサギが身動ぎした。
と。
部屋の照明である蝋燭の炎が、突如として一斉に燃え盛った。バチバチッと豪快に音を立てる、邪魔をされ、半ばイラつきながら怪訝に振り返ったトビィの瞳には、まるで怒りを表すような炎が映った。
酸素が多く入り込んだわけでもない、しかし、蝋燭の炎は異常なまでに燃えている。蝋を溶かし、芯すらも焼き焦がす程に。
気にせず口づけを続けようとしたのだが、音は大きくなるばかりだった。影が部屋中に揺らめく、怒り狂った蝋燭の炎が今にも襲い掛かかってきそうな雰囲気だった。
「チッ」
視界にチラチラと入ってくる炎と影に舌打ちする、こんな中で愛を交わすつもりは毛頭ない。苛立ちながら嫌々身体を起こし、深い溜息を吐いてからアサギの肩を揺さぶった。
「アサギ、アサギ」
揺すられ、頬に触れられ、アサギは小さく呻くと眉を顰めた。瞳を擦りながら、重たそうに瞼を開く。瞬きを何度も繰り返し、気怠そうに欠伸をする。
「ふにゃー」
どうやら寝ぼけているらしい、そんな様子のアサギを微笑ましく見ていたトビィだが、正面から抱き締めた。
あったかいなー、と暫しそのまま身動ぎしないアサギであったが。上を向いて、言葉を失う。
……誰だろう、この人。
唖然と見つめているアサギを不思議そうに見つめ返し、トビィは満面の笑みを零すと髪を撫でる。
「目は、覚めた?」
目が覚めたら、超絶美形に抱き締められていた……という少女漫画か乙女ゲームにでも有りそうな展開に、目の前で火花が散る。アサギは瞬きを繰り返し、小首を傾げて考え込んだ。
気がついたらユキ達五人で妙な部屋に居た、突然現れた吸血鬼に攫われた。……と思ったらミノルが似合わない格好で立っていた。
そして今現在、この状況。
さっぱり意味が解らない、整理したら余計意味不明だった。目の前のこの美青年が吸血鬼だろうか、と一瞬勘ぐったが、否定する。絶対の自信を持って言えた「この人は味方だ」と。恐らく、吸血鬼から助けてくれた人なのだろうと、確信を持つ。理由などない、ただの勘である。
“親しみ慣れた”腕の中で、アサギはトビィを見上げて戸惑いがちに微笑む。不思議と、懐かしい感覚に陥るのは何故だろう。以前から知っている暖かさ、心地良さ、そして安堵を感じてしまうのは何故だろう。ここにいれば何も怖いことはないと思ってしまえる程の温もりだった。
トビィは一心不乱に熱っぽく、アサギを見つめている。
徐々にトビィの顔が近づいてきている気がして、アサギは固唾を飲んだ。まるで、恋人が目覚めのキスをするように、今にも唇が触れてしまいそうな距離間。
先程まで本当に口付けを交わしていたのだが、アサギはその事実を知らない。
知らない内にアサギのファーストキスは奪われていたのだが、本人は気の毒な事に全く知らない。……本当に、“知らなかった”のだ。
アサギは反射的に顔を赤らめた。胸が跳ね上がり、軽い混乱で眩暈に襲われる。
けれども、吸い込まれそうな瞳に見つめられることに不快感はなく、不思議と安堵の溜息を漏らしたくなる。初対面の、筈なのに。筈なのに、どういうわけか、心地良いという奇妙な矛盾。
けれども、やっぱり恥ずかしい。何しろ、異性とここまで触れ合うのは初めてだ。
「あ、の」
「ん?」
アサギはようやく口を開いた。なるべく顔を離しつつ、誤って触れ合ってしまわないように。
「あなたが、助けてくれたの?」
これがクレオの勇者アサギと、ドラゴンナイトであるトビィの出逢い。
幾度も転生を繰り返し、片時も絆が離れなかった二人の、“何度目か”の、出逢い。今回の“アサギ”にとっては、一度目の。“トビィ”にとっては、二度目の、出会い。
悠久なる水はか弱き芽を見つけ、護り抜く事を誓った。
必ず二人は巡り逢う、引き寄せられて巡り逢う、互いの願いを叶える為に、必要不可欠な存在。
互いに見つめ合いながら、二人は暫し沈黙の時を過ごした。長年引き裂かれていた恋人の様に、いや、むしろ肉親の様に。
トビィがそっと、アサギの髪に口づけをする。愛しそうに、恭しく、視線はアサギの瞳を捕らえたまま外す事無く。
キィィ、カトン……。
何処かで歯車が回る音が聞こえる、二人の耳に、届く。
ガシャン!
室内で妙な音がした。驚いて身体を竦めるアサギと、怪訝に音の原因を探すトビィ。
燭台が倒れ、蝋燭の一つが何故か部屋に落下した。火が絨毯に燃え移っている、小さく叫んだアサギを見てトビィは名残惜しそうに腕から解放すると、火を消すために立ち上がる。忌々しそうに靴で火を揉み消す、良い雰囲気だったのに、と舌を鳴らした。
途端、後方でも異様な気配を感じた。視線を移すと、トビィの近くの蝋燭が業火となって燃え盛っている。トビィは怫然として目じりを上げる。先程からこの蝋燭たちは何なのか、まるで意思を持っているようだ、邪魔をされているとしか思えない。
睨みを炎にきかせ、トビィは踵を返す。アサギの元へ歩み寄り、跪いて優しく頭を撫でながら、先程の問いに答える。
「そうだよ、オレがあいつを倒した」
耳に心地よい、高くも低くもない澄んだ声は自然と落ち着く。思わず聞き惚れてしまう、囁くように言われて、アサギは本音を吐露する。
「す、凄く綺麗な声ですね」
「そうか?」
「そ、それから、とても素敵だと思いますっ。芸能人でも類を見ない位の美形さんだと思います」
「……よく分からないが、褒められているんだろうな? それはよかった」
芸能人、の意味がトビィには理解出来なかったのだが、瞳を輝かせて見つめてくれるアサギに悪い気はしない。それは、魂に刻まれた愛おしさ。
「それからそれから、とても……優しい方ですね」
溢れるように次々と口から飛び出るトビィへの称賛、アサギは穏やかに微笑むと俯く。優しい人だと直感した、気遣い方が、触れる指が、見せる笑顔が、とても優しくて自分を大事にしてくれていると思えた。
「それは、アサギ限定だが」
「え?」
トビィの呟きにアサギは思わず声を上げる、限定、と聞こえたが気のせいだろうか。
きょとんとしているアサギの前髪を優しくかき上げると、露になった額にそっと口づける。チュ、と御丁寧に音を立て、トビィは悪戯っぽく笑う。
「っー!?」
「いきなりそこまで誉められるのも、悪くはないかな。お褒めの言葉、光栄だ」
アサギは大慌てで額を掌で覆い隠した、ようやく引きかけていた顔の赤らみが、逆戻りする。
「え、あの、その、ええとー」
「ん?」
慌てふためくアサギの反応を楽しむかのように、トビィは業とらしく更に顔を近づけた。逃げようとするアサギの腰を優しく引き寄せ、視線の高さを合わせて笑う。
「それはそうと、アサギ。身体は大丈夫か? 気分は?」
不意に真顔になるトビィに、ぎこちなくだが返答する。
「え、えと。だ、大丈夫、です。へっきです、……と、言いましてもあんまり記憶がないのですが」
「なら良い。とりあえず、ここを出たほうが良いな。で、何故こんな場所に」
「旅の途中です、ジェノヴァへ行く予定でした」
「旅? 一人で?」
小さく「旅をしていたのか……道理で出逢えないはずだ」と呟くトビィに、アサギは不思議そうに首を傾げる。
「いえ、一人ではなくて。仲間がたくさんいます。はぐれてしまったので、捜したいのです」
軽く瞳を開くトビィは、怪訝に眉を寄せる。折角出会えたので、どうせならば二人で旅をしたいと思った。訴える様なアサギの視線に、不気味な程爽やかな笑みを返す。
……旅の目的は追々聞き出せばよいから。面倒だ、このまま二人で何処かへ行こう。
トビィの結論は、捜す振りして、捜さない。二人きりで居たいんだ……という身勝手極まりない本心を優先した。
「では早速、仲間とやらを捜しに行こうか。ジェノヴァで待っているかもしれないし、な」
「嬉しいです! ありがとうございます、ありがとうございます!」
そう言われ大喜びで礼を連呼するアサギに、トビィは微笑んだ。心底喜ぶアサギには申し訳ないのだが、トビィの言葉は嘘八百である。
軽々とアサギの身体を持ち上げ、慌てふためくアサギをお姫様抱っこすると余裕たっぷりに微笑む。
「体調が戻っていないかもしれないから、念の為」
有無を言わせないように微笑むと、何も反論できずアサギは大人しく頷いた。どうしてこんなにこの男には気を許してしまうのか、不思議だった。
トビィは扉を開き、歩き出す。軽すぎて実感がないが、身体にアサギの体温が伝わる事で、共に居るという安心感が得られた。ふわり、と懐かしい香りが鼻先をくすぐる。甘く爽やかで柔らかな、ずっと傍らにあった香り。
トビィは、一月程前からアサギを捜していた。
本来ならば、はぐれてしまったドラゴン三体を捜さねばならなかったのだが、それよりもアサギを優先した。
ただ、アサギの言葉を信じて。
『いつか、一緒に居られる日が来ます。その時まで暫しお別れなのです。また、お逢いしましょう』
そう言ったアサギの毅然とした、それでいて切なそうな笑みを忘れる事無く、捜し続けた。言葉は現実になった、こうして二人は出逢ったのだから。
トビィはアサギに恋をしている、一目合った、その日から。
何故恋をしたかなど、そんなものに言葉は要らない。自分が求めるものがアサギだと痛感した、それだけ。命をかけて護りたいと思う存在だと瞬時に理解したのは、何故だろう。守護する事が自分の役目、産まれてきた意味、愛し抜く事が自分の存在価値であり使命。
一目惚れだろうか……いや、そうではなく。
以前から、生まれる前から。おそらく前世も自分は彼女を護っていた、そして愛していた。
こうして再会し、確信した。
……やっと、見つけた。ようやく、出逢えた。何度も名前を呼びたい、呼び続けたい。狂おしいほど愛しくて、一晩中抱き締めて居たい。笑顔をずっと、見ていたい。
熱烈な情が、身体中に染み渡る。感慨深さにそっと瞳を閉じ、アサギの髪に口付ける。
「もう、大丈夫だ。何も心配することはない、オレが来たから」
アサギに言い聞かせたのか、自身に現実を刻んだのか、それとも。別の誰かに放った言葉なのか。
甘い空気が漂う中、トビィは先程侵入してきたドアを開く。洞窟を歩いていたら不快な感覚に襲われ、その場所を力任せに押した。すると扉が現れたので、一瞬困惑したが、退屈凌ぎに手を伸ばし突き進んだ。
そこに、アサギがいたのだ。
クーバーが仕掛けた洞窟からの普通ならば見破られない出入り口のドアを、偶然にもトビィは発見したのである。拙いとはいえ、通常の人間が通過しただけでは気づかない魔力で隠されていたはずなのに、そんなこととは露知らず、トビィは造作もなく解除していた。
それがトビィの力量ゆえか、それとも必然かなど知れた事。
洞窟へと足を踏み出したトビィの耳に、何やら人の声が聞こえてきた。
「アサギー!」
「アサギちゃーんっ!」
嫌な予感が、した。思いっきり顔を顰める。
が、足を止めても仕方がないのでトビィは突き進んだ。隠されていた扉が姿を見せる、洞窟に戻ってきたのだ。
「あ」
「……チッ」
トビィは幾度目かの舌打ちをした、物凄く忌々しそうに洞窟内部を睨み付ける。正確には、見知らぬ人間達に、あからさまに嫌そうな顔をして威嚇した、か。
皮肉にも、仲間達がつっ立っていた。
トビィの逃亡計画はいきなり台無しになったわけだ、機嫌が悪くなって当然である。
無論、険悪な雰囲気はトビィが放つものだけではない。
アサギを姫抱きして現れた美形の男に、一同は釘付けになった。
不機嫌な男は、同姓から見ても途轍もなく美形だった。足はすらりと長く、長身でバランスが良い。敵に回したら、厄介以外の何者でもない男である。美少女のアサギと寄り添う姿は、非常に絵になっているわけだが、不審人物である事に違いはない。
思わず身構える一同は、敵だと判断した。
いや、敵としたかった。勝てないと、悟ったので。
その緊迫した様子に、慌ててアサギが止めに入る。
「こ、この方に助けて貰ったの! 凄く強いのです! そして優しいのです」
殺気立ち、鬼のような形相で睨んでいる男だが、アサギを助けてくれたのなら、まぁ……と、渋々了解する。しかし、どうしても優しそうには見えない。そこだけはツッコミを入れたかった。
わざとらしく咳をしたアーサーが近寄ると、宣戦布告でもするかのようにトビィに微笑んだ。瞳は全く笑っていない、引きつって口角を上げただけだ。
「アサギを助けて頂いた様で、有難う御座います。それはともかく、何故彼女を抱き締めているのでしょう?」
「敵の妙な香りにやられていた、今離すと危ない」
「では、私が代わりましょう」
「断る」
周囲に発生した冷気で二人の間に亀裂が生じ、背筋が凍る。かつてない冷戦が巻き起こる。侮蔑を籠めた視線を互いに投げかけ、交差点で火花が散る。酷薄な笑みを浮かべた二人は、同族嫌悪に近い。
後方では、出るに出られなかった一同が成り行きを見守っている。
「つーか、あの幼女趣味賢者もアサギに触りたいだけじゃん。ボクもだけど」
「だなっ、俺もだ」
面白くなさそうに吐き捨てたアリナと、それに同意するサマルトは大きく頷く。そうして参戦すべく歩き出す、余計複雑になりそうな気配がする。
アサギは、小首を傾げて不思議そうに笑っていた。