外伝3『ABHORRENCE』15:妖精が知らなかったこと
文字数 4,239文字
“魔女”という単語は知らない。しかし、意味は分からなくとも悪い意味合いの単語であることは理解出来た。喉の奥が乾き、声が出せない。緊張と恐怖で足が強張り、微動だ出来ない。
何か嫌われるようなことをしただろうか、背にある羽根のせいだろうか。
今までとは全く違った異様な雰囲気に飲まれたアニスは、歯を鳴らした。初めて見る人間の嘲笑に、森の友達が言っていた事が脳裏を過る。
『ニンゲンは、怖いんだ。危険なんだ』
アニスはよろめくようにして数歩後退した、けれども手の中の指輪の存在に気づく。冷たく硬いそれが、勇気をくれた。
……そうだ、これを返さなきゃ!
恐れている場合ではないと、喝を入れる。深く深呼吸をすると、一歩、また一歩と静かに足を踏み出した。
木々から出て、光の下で全てを曝け出す。神々しいまでの麗しさは全てを魅了し、刹那その場は静寂に包まれた。
しかし、光に出たことは裏目に出る。
「あの服! 私のよ!?」
オルビスがわなわなと身体を震わせ、アニスの衣服を指した。他の少女たちが呼応し「本当だわっ」「泥棒よ!」と叫ぶ。
少女たちの暴走は止まらない。
非の打ちどころのない美少女でも、追及する事は出来る。相手は一人、こちらは数人、攻撃の隙さえ与えなければ、勝てる。多勢に無勢で、人外への未知なる恐怖など少女達は気にも留めなかった。
アニスが着ている衣服は、紛れもなくオルヴィスの物だった。皮肉にも、鷹はそれを人間の街から盗んできてしまった。人目がない場所だったのは、オルヴィスの所有する土地が広く、隣家と密接していなかった為。
上等な布と目を見張る珍しい青色の草木染は、身につけているだけで裕福な娘だと解る代物だった。もちろんオルヴィスも気に入っており、よくその衣服を身に纏い自慢していたのだ。
それは、数年前の話。けれども、人は幸福より不幸を色濃く胸に刻んでしまう。
衣服が盗まれた際、皆の耳にタコが出来るほど嘆きの言葉を聞かせていたので、誰もが憶えていた。うんざりしていたあの不愉快な時間が甦る。
余計に、腹が立つ。
「この泥棒! 馬鹿みたい、全然似合ってないのに!」
口からとめどなく溢れる汚れた言葉は、剣となる。
確かにアニスには大きい服だが、似合っていないことはない。より幻想的な精彩を放っている。しかし、彼女らが認めるものか。
認めなければ、事実は捻じ曲げられる。
オルヴィスはトカミエルの正面に立ち、アニスとの視線を遮ると猫撫で声を出し抱きついた。
「トカミエルだって、知ってるでしょう? あの服、私のなの。酷いよね」
殺気立った雰囲気にアニスは尻込みした。だが、やるべきことがある。生きた空もないが、この指輪をトカミエルに返さなければ。
その想いは、恐怖に打ち勝った。
指輪を返す、練習通りに渡すだけだと何度も言い聞かせる。それが出来れば満足だ、すぐに引き返せばよいと。
少女たちが放つ非難の声は聞こえないフリをして、トカミエルに近づいていく。
「あの、この指輪を昨日拾ったので。返しに、来たんです」
震える声でそう告げた。
きっと誤解はとけ、トカミエルが来てくれるだろう。
「指輪を、指輪を」
その様子を、人間たちは訝しげに息を顰め眺めている。
何も言ってくれない人間に、アニスは焦って徐々に間合いを詰めた。けれども、縮まらない。
人間たちが離れていく、顰めき合い、こちらの様子を窺い、たまに含み笑いをしながら後退している。
身体を突き刺すような視線に耐え、恐ろしさを堪えてトカミエルへと向かう。
「返しに、来たのです」
一生懸命そう言い続けた。
トカミエルの前で両腕を広げ、怒りを露わにしているオルヴィスとの距離が近くなる。
アニスは、指輪を見せようと掌をそっと開いた。
伸ばされたしなやかな腕の先、掌で何かが光ったのを確認したオルヴィスは、訝しげに瞳を細める。
「指輪!」
悲鳴の様に叫び、光る指輪に目を見開く。瞳に飛び込んできたそれは、怒髪冠を衝いた。
「サイテーっ! これ、トカミエルの指輪よ! あんたが盗んだのね!?」
「えぇ!? 違います、川に落ちていたから拾って、返しに来ただけでっ」
オルヴィスの言葉に焦ったアニスは、縋り付いた。
「ヒィっ、汚らわしい! 近寄らないで、化け物!」
怖気が全身を襲う。間近でアニスを見て、眩い美しさと幻想的な雰囲気に反射的に右手が飛び出した。
パンッ!
乾いた音が響き渡る。
消し去りたい一心で、オルヴィスはアニスの頬を全力で平手打ちした。
身構えていなかったアニスは、その衝撃で地面に倒れ込む。腫れて赤くなり、熱を持つ。皮膚が痺れる初めての感覚に、呆然として目の前に立ちはだかるオルヴィスを見上げた。
「ち、違います、盗んでいません。拾っただけですっ」
うっすらと瞳に涙が浮かび上がる。
丁重に育てられ、見守られてきたアニスはそんな痛みなど知らなかった。しかし、ジンとする頬よりも、胸が痛い事が不思議だった。
何故、信じてくれないのか。
頬を叩かれた衝撃で、手の中の指輪が一輪の花の上に滑り落ちている。
大股で近寄ってきたオルヴィスはそれを拾い上げると、自分の衣服で綺麗に磨いてからトカミエルの指にはめた。
それは、誓いの儀式のようだった。愛する人の大事な指輪をはめた者が勝者だ、と言わんばかりに。
下衆張った表情でアニスを鼻で嗤ったオルヴィスは、トカミエルの掌を撫でる。
こうして、指輪はトカミエルの元へ無事に戻った。
「ぁ……、えっと……」
唖然と成り行きを見ていたアニスは、狼狽し喉を鳴らす。目的は達成できたのだから、このまま森へ帰るのが懸命だと判断した。これで、十分だ。トカミエルは喜ぶだろう。
一応その手助けは出来たのだ、これ以上荒立てることもないと言い聞かせる。
だが、恐怖で身体が硬直し動けない。
倒れこんだまま震えるアニスを見下ろしていた少女たちの心に、再度嫉妬と憤怒の炎が上がった。悲劇のヒロインでも演じているかのようなその状況に、苛立ちを覚え詰め寄る。
他に攻撃できる要素はないかと獲物を狙うように値踏みすれば、目に入ったのは花冠だった。にんまりと意地の悪い笑みを浮かべ、狡猾な瞳で目配せする。
引き攣った笑いを浮かべたオルヴィスは腰を振って堂々と歩き、震えているアニスを再度はたく。
パァン!
反対側の頬にも痛みが走り、アニスの身体は大きく揺れた。
「何よ、その貧乏くさい冠! 馬鹿じゃないの!」
オルヴィスの腕が頭上に伸び、髪ごと花冠を引っ張った。
「きゃあ! やめて!」
茫然と見上げていたアニスだが、弾かれたように抵抗をする。
けれども花冠は容易く捥ぎ取られた。
「あぁっ!?」
アニスの目の前で一気にそれを引き裂いたオルヴィスは、高笑いしながら傍らに投げ捨てる。
ハラハラと、花と葉は散った。
地面に落ちた無残な姿に、アニスは大粒の涙を零す。震える腕を伸ばしたが焦点が定まらず、掴めない。
髪が引き抜かれた痛みより、宝物が破壊された激痛に心が壊れそうだった。
「あ、あぁ……お姫様の……冠が」
涙が止まらない、先程の光景が瞼に焼き付いて離れない。
花冠は、ただの引き抜かれた白詰草の残骸となった。
「こ、この花冠は、貴女がトカミエルに頼んで作って貰ったものですっ! あの時、貴女も喜んでいたのに。これを頭上に掲げていたではありませんか……」
溢れる涙を零しながら、オルヴィスを見上げ必死に訴えた。
「何よ、その目! 私を誰だと思ってるの!?」
その視線に唇を噛み締め、オルヴィスは再びアニスを平手打ちした。天下無敵の一級品であると豪語している彼女は、気に入らない女中に罵声を浴びせ虚偽をぶちまけ平手打ちをすることなど日常茶飯事。手馴れたもので、小気味よい快感すら得ている。
弱い者には躊躇しない、何故ならば自分にはそうする資格があると自負している。
胸を抉られるような大声に、アニスは瞳をきつく閉じ耐え忍んだ。
「その服返しなさいよ! 全然似合わないし、あんたが着られるような服じゃないの! それは私のよ!」
「何よこの羽根、気味が悪い!」
アニスが微力な抵抗しか出来ないと知った途端、オルヴィスを筆頭に少女たちは寄ってたかって衣服を、羽根を、そして髪を引っ張った。醜悪な笑みを浮かべ、嬉々として暴行する姿は非常に浅ましい。
しかし、時の運は彼女らに傾いた。
「み、見て! この女が腕に巻いてる布って!」
「トリアの!? これ、トリアのだわ!」
「あんた、これも盗んだの!?」
目敏く気づいた少女たちは、水を得た魚のようだった。
「そういえば、最近違う布を額に巻いてた! これを失くしたからよ!」
「最悪! 人のものを盗むなんて、どこまで卑劣なのっ」
卑劣なのは、どちらだろう。
しかし、咎める者などおらず、少女たちは拍車をかけアニスに暴行を加えた。
トカミエルの指輪、トリアの布、オルヴィスの衣服。
オルヴィスはともかく、トカミエルとトリアは羨望の相手であり、彼らの所持品を持つ事は自慢であり誇れること。
誰も成し得なかったことを、アニスがやってのけた。
トリアがお守りにと置いていった布は、皮肉にも正反対の意味を持ってしまった。
髪を引っ張られ、衣服が引き千切られ、腕が引き抜かれそうになり、皮膚にじんわりと血が滲む。
「痛い、痛いよ!」
「何よ、さっきから口を動かして! 言いたいことがあるなら喋りなさいよ、気持ち悪いっ」
ようやく、アニスは気づいた。
指先で唇に触れ、顔面蒼白で滑るように喉を押さえる。
人間には、自分の声が聞こえていない事実を知った。
思えば、トリアと会話した記憶はない。クレシダとは会話した、だが彼は馬という動物だ。
人間の声は聞こえていた、理解できたから、自分の声も届くのだと思っていた。
人間には、動物の声は聞こえない。啼き声を聞き取ることは出来るが、何を言っているのか理解していない。
その事実を、アニスは知らなかった。
人間には、森の木々や花の言葉も聞こえない。
それも、アニスが知らなかったことだった。
容姿は人間に近くとも、自然界にその存在を置く妖精は人間とは異なっている。
「人間には、声が届かない!」
憔悴しきった顔で、悲鳴を上げた。