外伝2『始まりの唄』13:囚われの獲物
文字数 3,903文字
酷く悲しくて、アリアは声を立てて泣いた。自分の手を握ってくれていた夫の手が、冷たくなっていく。気が狂いそうな程に、大声で泣き喚いた。
耳の奥に響く泣声を聞きながら頭を掻いたトダシリアは、アリアの肩にそっと手を乗せ揺する。
しかし、アリアはトバエを見つめている。空気に触れられているも同然に、こちらに気づかない。
「チッ」
肩を竦め唇を歪めると、強い視線を感じ何気なくそちらを見下ろした。空虚なはずのトバエの瞳が、炯々として自分を捕らえている。『彼女に、手を出すな』そう念を押された気がした。
「ククッ! アハ、アハハハハ!」
一瞬呆けたが、大きく瞳を開き失笑する。トバエに縋っているアリアの細い腰を抱き上げ、無理やり引き剥がした。
ようやくトダシリアの存在に気づいたアリアは、それこそ死ぬつもりで暴れた。全力で掌に爪をたて、大声で喚き散らし、脚をばたつかせる。
「コイツッ」
痛みから、トダシリアはアリアを地面に叩き付けた。華奢な身体が転がって衣服がめくれ上がると、扇情的な白い太腿が現れる。喉を鳴らし、それを視姦した。
「う、うぅっ」
腕の力でよろめきながら立ち上がったアリアは、捻ってしまった足首に顔を歪めつつもトバエを目指して歩いた。ふくらはぎには割れた陶器の破片が刺さっていたが、身体の何処が痛いのか解っていない。露出している箇所は、擦り傷と軽度の火傷を負っている。
「おい、何処へ行く。別れの言葉は済んだだろ、寛大なオレはここまで待ってやった。そろそろ時間だ、行くぞ」
腕を掴まれると、身体中を電撃が走り抜けた気がして一瞬硬直した。今のは、嫌悪感ではない。弾かれたように、アリアはトダシリアをようやく見つめた。
二人の視線が、絡み合う。
「お願いです、トバエを助けて!」
途端、反射的にアリアはトダシリアに叫んだ。この場には、他に誰もいない。夫を助けられる可能性があるのは、目の前の男だけだ。
しかし、助けを乞うなど狂気の沙汰。
「……は?」
興ざめし、眉間に皺を寄せたトダシリアは苛立ちを含んだ間抜けな声を出した。
チリリ、と空気が震え、熱を帯びたのがアリアにも解る。機嫌を損ねたのだろう、だがそれで構わない。
「トバエを助けてください! あなたの大事な弟でしょう!?」
「あのな、オレ達のやりとりを見ていただろ? 大事なわけあるか、そもそも刺したのはオレだ、どうして今更助ける必要がある」
呆れ返ったトダシリアは大袈裟な溜息を吐き、退屈そうに欠伸をした。
「わ、私を欲しいというならば! トバエを助けて下さい! トバエを助けて下さるのなら、い、一緒に行きます……。でも、駄目ならここで死にますっ」
道に落ちていた瓦礫の破片を拾い上げ、アリアは自分の首元に押し当てた。
トバエの瞳が、『駄目だ』と訴える。だが、今のアリアに解る筈がない。
……駄目だっ! それではアイツの思うツボ。
今の発言は、どこまでいってもトダシリアに有利。これを避ける為に、二人であの世へ旅立つ予定だった。自分が足枷となり、アリアを苦しめることだけは避けたかった。
しかし、もう、遅い。
脳の片隅で、何かの記憶が甦る。散々涙を零し、床に蹲って腕を伸ばしている愛しい娘の姿が鮮明に映し出されていた。トバエの胸が、押し潰されそうな程に痛む。今ここで自分が命を落とせば、アリアも追って自害するだろう。未練たらしくまだ生きているこの身体を、恨めしく思った。
……水霊、頼む。オレを殺してくれっ。
そう願うものの、返答はない。それが無理ならアリアを救ってほしいと、一つ筋の涙を零した。
「私は本気です!」
決死の覚悟で訴えるアリアを、トダシリアは眉を顰め見つめた。だが、泣きながら懇願し、今にも土下座をしそうな勢いの子羊は非常に愉快に見える。怯えている様で凛としている美しい娘は、嗜虐的な自分にこそ相応しい。「こういう趣向もありかな」と唇を動かすと、無意味に外套を翻した。
「そうか、そこまで言うのであれば、トバエを助けてやろう。愛しいアリアの願いを、オレが叶えてやる」
アリアの顔が、パアッと明るくなった。
けれども、罠にかかった愚鈍な獲物を憐れみ哂う様な笑みを浮かべ、トダシリアは続ける。
「『お願いです、トバエを助けて下さい。愛しいトダシリア様に、私の全てを捧げます』と言いながら口付け出来たら、全力でトバエを助けてやろう。そうそう、トバエの血の臭いが不愉快だ、染みついたその衣服は脱ぎ捨てるように。お前に、出来るか? 出来るよな、愛しい男を救いたいんだろ? これくらい、どうってことないよな。減るもんじゃないし?」
アリアは、鳩尾が打たれたように声も立てられず青褪めた。トバエ以外の男に肌を見せたことなどないし、口付けなどもってのほかだ。
当然、躊躇した。歯を鳴らすほど震えながら、冷徹な笑みを浮かべているトダシリアを見上げる。
「どうした、アリア。早くしないと手遅れになるぞ? 可哀想なトバエ、これでは妻に見殺しにされたも同然で」
「や、やります、やりますからっ」
言葉を被せ、アリアが悲痛な叫びをあげた。
「そうか、ではさっさとしろ。トバエが死ぬぞ、お前のせいで」
喉の奥で緩やかに哂い、トダシリアはアリアに歩み寄る。
「さぁ、服を脱げ。手伝ってやろうか?」
アリアは首を横に勢いよく振り、ガクガクと震える指先で衣服に手を伸ばした。きつく瞳を閉じると、慣れ親しんだ衣服を脱ぎ捨てる。羞恥心から、身体中が熱く火照った。
……なんという辱め!
屈辱に耐えているアリアを視姦しつつ、トダシリアは口笛を吹く。現れたのは、想像以上に美しい裸体だった。胸や秘所を腕で隠しているものの、柔らかそうで艶のある肌は隠せない。見た瞬間に鼻の穴を膨らませ、微動だ出来ないトバエに微笑みかける。戯れで思いついたことだが、実に愉悦。嫌悪する双子の弟は、何も出来ない。自分の愛する妻が肌を曝け出し、他の男に口付けするのを、止めることが出来ない。
……なんて無力な。意識が鮮明であれば、もっと愉快だったろうに。
大げさに吹き出すと、ゆっくりと両腕をアリアへと伸ばす。
……トバエは、今どんな気持ちだろう。
横目で見やると、トバエは痙攣している。このままでは死ぬかもしれないが、アリアが口付けをしていないのだから助ける義理はない。今は、目の前の獲物に集中することにした。
「おいでアリア、誓いの言葉を。早くしないと、トバエが死ぬぞ?」
アリアは、俯きながら身体を大きく震わせた。そして途切れ途切れで言葉を紡ぐ。
「っう。……『わ、わたし、は。トバエを、助けて、欲しいので、こ、この身を貴方様に捧げま、す』」
「やり直し、“愛する”が抜けている」
怒気を含んだ声で告げると、アリアがすすり泣く。なんとも加虐心をそそられる姿に、下腹部が熱を帯びる。トダシリアは大股で近づくと、再び消え入りそうな声で言葉を紡ぎ始めたその顎に手をかけ、強引に上を向かせた。
「オレの目を見て、誓え。それから、はっきりと言え。トバエにも聞こえるように」
語尾を強め、若干の苛立ちを見せる。楽しくて仕方がないのだが、威圧感を与えたほうが生贄はより一層美味くなるだろう。
「わ、わたし、は、愛しい貴方様に全てを捧げます、ので、どうかトバエをお助けください」
近くにいるトダシリアですら、ほとんど聴こえなかった。不服だったが、言葉は口にすると威力を増す。アリアは自らの言葉で、呪縛してしまった。
「さぁ、口付けはどうした」
さめざめと泣いているアリアの顎を揺すり、脅迫する。
「トバエにするのと同じ様にやってみろよ、毎晩寝所で強請るようにするんだろ?」
挑発的な台詞にアリアが顔を赤らめることはなく、ただ、脅えて唇を噛む。何故愛する夫を刺し、瀕死の状態に至らしめた相手に口付けをしなければいけないのか。
それでもトバエを助けるには、この目の前の愚劣な男に頼むしかない。
アリアは、押し殺して泣きながらそっと爪先立ちになった。
愉快そうに頭を撫でたトダシリアは、「物分りがいいな」と軽く屈んで顔を近づける。そして、アリアの腰に腕を回して引き寄せた。
顔にかかる息から瞳を閉じていても、ある程度唇の場所が解った。瞳をきつく閉じたまま、アリアはそっと口づける。どこかに触れた、唇でなくても構わないと思った。
一応、口付けはした。
「心の底から揺さぶられるような情熱的な口づけを期待していたが、それは別の場所で愉しもう」
からかうように耳元で囁かれたと思ったら、頭部を強く押さえ込まれた。悲鳴を上げそうになった唇に、容赦なく舌が割り込む。逃げようにも逃げられない強い力と荒々しい口付けに、抵抗し暴れていたアリアの力が徐々に抜けていく。口内を犯す舌は、意思を持っているように執拗に舌を絡ませてくる。逃げようとしても、狭い口内で隠れる場所などない。一旦捕まると、舌を抜かれそうなほどに強い力で吸われる。そして、トダシリアの口内でなぶられ、唾液まみれにされてしまう。
「あぁ、忘れていた。トバエを救わねば、約束だから」
眩暈がした、脳を強打されたようだった。薄っすらと瞳を開けば、トダシリアが無邪気に笑っている。それはとても、爽やかで凶悪な笑みだった。
……あぁ、トバエ!
唇から零れ落ちていたどちらのものか解らぬ唾液を舌で拭われ、そのまま再び深い口付けをされたアリアは、ついに意識を手放した。
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2020.11.09 人物相関図を挿入しました。
※話数が違うのは、別サイトで連載中のものに合わせた為です。