スリザとアイセル
文字数 4,966文字
惑星クレオの魔王アレクは、腹心であるスリザを呼び出し言付けを頼むと、自室の転送陣から消えた。今に始まった事ではない、時間さえあれば供を連れず外出する。
「いってらっしゃいませ、お気をつけて」
スリザは、アレクの姿が消えても頭を垂れたままだった。ようやく顔を上げると、静まり返った室内で知らず重苦しい溜息を吐く。行き先が恋人ロシファの元であることなど、周知の事実。本当ならば魔界に連れて来たいだろうに、エルフの血が混ざっている為、安全な場所で庇護している。
ロシファの居場所は、スリザですら知らされていない。解っているが、信用されていないのでは、と多少胸が痛んでしまう。
踵を返し退室すると、きっちり施錠する。アレク以外で鍵を所有しているのは、スリザ一人。入浴中も睡眠中も、肌身離さず所持していた。騎士団長が代々預かっている魔王の間の鍵は、紅玉が施され古めかしい光を放っている。
扉に深く一礼すると眉を吊り上げ、大股で歩き出した。騎士団長は、魔王と同じく血筋で定められてきた。産まれた時からの決まり事とはいえ、任されているスリザが気を抜くことはない。
ふと楽しそうな笑い声が、耳に届いた。廊下から下を覗き込むと女官と下っ端の騎士が数人、和気藹々と会話している。頬染めている女官がいた、おそらくあの中の誰かに気があるのだろう。
スリザは自然と、その強張った口元を緩めた。
「羨ましい事」
羨望の光が宿った瞳で、小さく漏らす。
スリザは、アレクを敬いつつも弟のように思い、幼き頃から仕えてきた。
美童のアレクは、人形の様に綺麗な主君であり、肌とて髪とて、スリザよりも女らしく感じられた。だが、時が経つにつれ、男らしさを垣間見せるようになった。憂いを帯びた表情はそのままに、筋肉は目立ちはしないものの十分につき、背丈もスリザを超えてしまった。
心根優しく穏やかな彼が、護衛から憧憬の対象へと変わるのに、そう時間はかからず。
けれども、すでにアレクには麗しい恋人がいた。剣によって出来たマメだらけの無骨な掌とは違い、柔らかな掌としなやかな身体、流れるような髪を靡かせていたエルフの姫君。相思相愛の二人に、割って入る隙などない。
「お傍でこうして成長を見届け、お役に立つだけで幸せなのだ。本来ならば、会話すら出来ぬ雲の上の存在」
自嘲気味に呟いたスリザは、目を吊り上げると談笑している魔族らから視線を外して歩き出す。
「何者だ!」
しかし、突如として腰の剣を二刀同時に引き抜き、後方の影を確実に捕らえ、喉元に剣を突きつけた。呼吸をすれば、たちまちに皮膚が切れるであろう。スリザは鋭い眼光で睨みつけると、先程から自分を尾行していた相手に声を荒げた。
「何用だ、アイセル。部屋を出た辺りから貴様の気配を感じていた」
喉元に剣先をそえられながら、アイセルは苦笑した。唇を動かせば振動で喉が振るえ、確実に切れる。解っていながら、スリザは剣を収める気がない。
見つめ合う二人だが、諦めて折れたのはアイセルだった。喉元から、微かに血が滲み出す。しかし、顔を歪めることなく、真正面からスリザを捕らえる。
流れ出る血液を見ても、冷めた瞳のスリザは剣を変わらず構えたままだった。
「辛いんでしょ、アレク様に仕えるの」
しかし、意外な言葉にスリザの張り詰めた糸が緩んだ。
それを見逃すわけがなく、己の強固な手甲で剣を両側に弾くと宙返りをしたアイセルは、スリザの背後に下りて首筋に右手を押し付ける。
舌打ちしたスリザは、両の肘をアイセル目掛けて素早く叩き出そうとした。だが、アイセルの左腕でがっしりとスリザの身体は腕ごと抱き締められ、身動きがとれない。失態に、頬を主に染める。見知った男だからと、若干油断してしまった自身に腹が立ち、責める。
「俺、スリザちゃんを傷つけるつもりはないから。ただ、聞いて欲しい」
「この羽交い絞め行為が、既に私の精神を傷つけているんだが」
怒りに震えているスリザの声に、アイセルは寂しそうに笑う。けれども、離さない。
「ごめん、自尊心を傷つけている事は、解ってる。スリザちゃんは一人で気を張るほど強くない、頼ってもたれかかる相手を作りなよ。……出来れば、今みたく俺であって欲しいな」
「自分の事は、私が一番知っている。何を偉そうに」
「気づいてる? 最近ずっと、辛そうだよ。恋に悩むスリザちゃんも綺麗だけれど、それでも辛そうな姿を見ているのはキツい」
委縮したように、暗いアイセルの声色。表情にも哀愁が漂っているが、生憎スリザからは見えない。
「喧しい、残念ながら見当違いだ。勝手なことを言わせておけば」
鼻で笑い、スリザは渾身の一撃でアイセルを腕を振り払おうとした。先程から背後に感じる体温がくすぐったくて、不愉快だった。耳元で囁かれる様な話し方も吐息も、全てが癪に障る。
しかし、腕に更に力を篭められ身動きできない。
スリザは、悔しさから小さく呻いた。圧迫されるような抱擁に、背筋が寒くなる。男に羽交い絞めされるなど、思ってもいなかったことだ。血の気が失せていくのが、自分でも解る。相手は自分の部下であり、見下していた相手なので衝撃が大きい。
「最早、私の力も限界。そろそろ隊長交代の時期か」
「そんなわけないでしょ。俺にだってこれくらい出来る、惚れた女一人組み敷けない様じゃ、やってられない」
自嘲気味に吐き捨てたスリザに、アイセルが平然と言葉を投げた。
スリザが隊長の座に就任してから、長い年月が過ぎた。けれども、未婚のスリザには当然跡継ぎなど存在せず、親戚から養子をもらうべきだと話が浮上していた。しかし、そこまでの高齢ではない、十分現役でいられると自信があった。故に、その話を白紙に戻してきた。
右脚を動かしアイセルの足を踏み潰そうとしたが、だが、彼の右腕によってその脚すらも封じ込められる。びくともしない、我武者羅に動いてもどうにもならない。力任せに行っては駄目だと頭ではわかっているが、焦燥感に駆られ力任せに身体を動かす。屈辱だ、「こんな間抜け面の部下にいいように扱われるなんて」と、悪態をつく。
悔しさで涙が溢れそうになった、惨めで仕方がない。何度も男を打ち負かしてきた、その度に優越感に浸れた。女だから、と蔑む輩もいた。その度に実力を示し、相手を完膚なきまでに叩き潰して誇りを護って来た。
「しょーがないなぁ、スリザちゃんは本当に強情なんだから。……無理だって、言っているのに」
呆れたようなアイセルの声が耳元で聴こえたかと思えば、耳鳴りがする。冷たい背中は、硬くて痛い。それが床であると認識できたのは数秒後だった、押し倒されてしまった。一気に身体中の血液が逆流し、沸騰する。
「本当に、いい加減にしないと殺」
真っ赤な怒り顏から放たれた、消え入りそうな声が途切れる。
アイセルの唇が、スリザの言葉を掻き消した。
大きく瞳を見開く、身体が引き攣り、硬直した。悔しさから、瞳孔が開く。男に口付けされたのは、初めてだ。女の柔らかく、花の様に甘い口付けとは違う、何処か恐ろしいものに感じる。
スリザの身体が跳ね上がろうとも、アイセルは痛めつけないように最低限の力で拘束している。
……色魔!
手慣れた様子のアイセルに、無償に腹が立つ。唇をこじ開けて入ってきた他人の舌の感覚に、背筋がざわめく。どこで呼吸をしたらよいのか解らず、息苦しさから顔を歪める。
「スリザちゃん」
一瞬、アイセルが熱に浮かされた声で名を呼んだ。
その隙に思い切り呼吸をしたが、直ぐに再び塞がれた。熱いアイセルの舌が動けば、粘着音が耳に届く。微かに離れた隙に息をすることが、スリザにとって精一杯だった。熱いものが口から入ってきて、下腹部にも達しそうな感覚に陥る。
幾度か繰り返されると抵抗する力が失せ、強張っていたスリザの身体はなすがままとなった。それでも、アイセルの貪る様な口付けは止まらない。
どのくらい経過したのだろう、唇が痺れている。
「ごめん」
消え入りそうな声で謝罪し、アイセルはスリザの唇から零れる唾液を舌で拭いとった。無言で咽ている姿を暫く見つめていたが、ぎこちなく腕を伸ばすと抱き締めて身体を起こす。
「本当に、ごめん。でもね、スリザちゃんがアレク様を見てきたように、俺もスリザちゃんをずっと見てきたんだよ。愛して、る。スリザのことを、愛してる!」
震える声で耳元で告げたアイセルは、そのまま立ち上がると走り出した。
弾かれて顔を上げたスリザが見た彼の表情は、耳を真っ赤にし、泣きそうな迷子の子供のようだった。だが、目が合うことは無かった。
「馬鹿げたことを」
一人残されたスリザは、気だるく起き上がると自身の唇を押さえる。力任せに唇を擦り、嗚咽する。
「汚らわしい!」
ねっとりと蠢く舌の感覚が消えない、吐き出そうと指を口に突っ込んだ。
「ぉえっ」
泣き声を噛み殺しながら蹲っている惨めな姿を誰にも見られたくない、見られては生きていけない。
「性欲を押し付ける行為を、愛という清純な言葉で誤魔化すな!」
憎しみの炎が、瞳に灯る。それでも、アイセルの声が脳裏から離れない。
『スリザちゃんがアレク様を見てきたように、俺もスリザちゃんをずっと見てきたんだよ。愛して、る。スリザのことを、愛してる!』
「違うっ! 愛とは、このような一方的なものではない!」
スリザは、擦って腫れた唇に怖々と指を添えた。そこだけ、異様に熱を帯びている。単に、先程擦ったせいだと思った。屈辱を味わった、八つ裂きにして殺してしまいたい。
それなのに。
「……アイセル?」
年下で格下の男は常時おどけてばかりいる、嫌悪感を具現化したもの。頭では解っている、しかし、何かが邪魔をする。
「私はアレク様を、崇高の対象としてっ!」
見ているだけで、十分だ。それだけで、満ち足りた幸福を味わっている。
スリザは、必死に自分に言い聞かせた。今のは悪い夢だ、忘れようと。身体を穢されたわけではない、もしそうだったら、今頃アイセルの大事な部分を切り落としている。
二度と、下卑た行為をしないように。
「クソッ」
もどかしく感じる下腹部が、煩わしい。一人軽い溜息を吐くと、震え出した身体を、腕で必死に押さえ込む。
「気にしなければよい。あの男の戯言など、真に受けてはいない。傷ついてもない、蚊に刺されたようなものだ」
強がってはみたが、身体の震えは治まらない。
……これから、アイセルとどのように接すればよいのだ。
瞳を固く閉じ、蹲る。
「いやだ、こんな私は嫌だ! 男に翻弄されるなど、まっぴらごめんだ!」
気にしなければよいのに、出来ない。
「だ、だって、お前はっ」
アイセルの視線の先には、常に少女がいた。それは、可愛らしい洋服の似合う、誰からも愛されるような少女達だった気がする。
「生意気な上司の鼻先を折ろうと……からかったのだ、あの男は」
悔しくて歯軋りする。けれども、アイセルの声色は、真実味を帯びていた。
「ち、違う! 誰が、誰が! あのような男にっ」
身体を竦めて、膝に顔を埋める。胸が早鐘のように、ドクドクと脈打つ。
『愛してるよスリザ』
声が、聴こえた。
「やめろ、やめてっ!」
自分が分からない。
憎らしい、苦しい、壊れそう、悔しい、なのに。
『ごめん、自尊心を傷つけている事は、解ってる。スリザちゃんは一人で気を張るほど強くない、頼ってもたれかかる相手を作りなよ』
そんなこと、産まれて初めて言われた。弱みを握られたら終る、だから自分はいつも凛々しく完璧に生きていく。
けれど、本音は少しだけ、疲れた。
「ど、どうせ嘘」
右目から、一筋の涙が流れ落ちた。