好きの三角模様
文字数 3,656文字
「天女でなければ、何だというのだろう。ところで、オレは死の淵にいた気がするが……アサギの力に救われたと思ってよいのか?」
普通に会話している自分に、トビィはひどく驚いた。魔族のオジロンの卑劣な罠に嵌り、散々に散った屈辱は火種となって腹の底に燻っている。あの時、死を覚悟した。
アサギは、ゆっくりと顔を横に振る。
「いえ、貴方の生きたいという願望と強靭な精神力ゆえです。私は回復魔法を唱え、きっかけを与えただけ」
唄でも聴くように耳を澄ませていたトビィは、急に眠気に襲われた。幾らここが治癒の間だとしても、全快するには時間を要する。起きていてアサギと会話がしたいのに、それが許されない。不服だと、唇を尖らせる。
「何処かで逢ったか? その柔らかで耳に心地良い声、聴いた記憶が……」
「今はまだ、お眠りください。体力が戻ったら、また」
優しくトビィの手を握ったアサギは、困惑気味に微笑んだ。
トビィは名残惜しそうに肩を竦めたものの、睡魔に勝てず瞳を閉じる。瞼が数回痙攣する様に動いていたが、すぐに安らかな寝息が聞こえ始めた。
「アサギ、入るぞ」
クレロの声に、アサギはトビィの手をゆっくりと離す。立ち上がると、晴れ晴れしい笑顔を見せた。
「その様子だと、順調かな?」
「はい! 今、少し瞳を開きました。ここは、とても素晴らしいお部屋ですね」
「言っただろう、私に出来ることは初歩の回復魔法に、中級の回復魔法と、どうにか高位な回復魔法だと」
冗談めかして笑ったクレロに、釣られてアサギも笑い出す。
「疲れただろう、そろそろ地球に戻るかね」
「そう、ですね。でも、夕飯を食べたらまた来ます。宿題をここに持ち込んでも大丈夫ですか?」
「構わないよ、だが無理はしないように」
一旦トビィのもとへ行き覗き込んだアサギは、切なそうに瞳を細めた。トビィの唇が若干開きかけたので、そっと頬を撫でる。
「すぐに、戻ります。少しだけ、待っていてくださいね」
念の為施錠し退室した二人は、他愛のない会話をした。
廊下を歩きながら、ふと、クレロは壁に映るアサギの容姿に瞳を細めて微笑む。
「それにしても
「そうなのですか? 地球の日本は染めている人もいるけれど、多くが黒髪黒瞳ですよ。たまに薄茶色みたいな髪の人もいますが。トモハルやユキみたく」
あどけなく笑ったアサギに、クレロは「そうかね」と相槌を打つ。
地球の自宅に戻ると、食卓には見事な夕飯が並んでいる。体調不良でない限り、アサギの母は決して手を抜かない。素朴だが、母が作る食事は家族という居場所と、安心感を得ることが出来る。
「美味しそう! 私、蓮根のきんぴら大好き」
家族達といつものように会話を楽しみつつ夕飯を終えたアサギは、部屋に置いたままになっていたスマホが点滅している事に気がついた。普段ならば持ち歩くが、帰宅してすぐに充電をしていた為、すっかり忘れていた。そもそも、思い出す余裕がなかった。
慌てて開き確認すると、SNS経由での通知が三件で、全てミノルからだ。
アサギは顔を輝かせたが、すぐに気落ちして唇を噛む。きたら嬉しい好きな人からの連絡だが、すぐに対応出来なかったことを悔やむ。何故今日に限って持っていなかったのか。
しかし、そもそも異界でスマホの使用は不可能だ。持ち歩いていたとしても、気づくのに時間を要する。
自分に苛立ちながら焦ってかけ直すと、数回のコール音が響く。ドキドキして待っていると、多少不機嫌そうなミノルの声が聞こえてきた。
『もしもし?』
「ごめんなさい、スマホを充電したまま部屋に置きざりにしてた」
ミノルは、少し間をあけてから妙に上擦った声を出した。
『あー、あぁ、気にするなよ。ところで、あのさ。その、今から会えねぇ? 西の公園でさ』
アサギの表情は、一気に曇った。断りたくはない、行きたい。しかし、トビィのもとへ戻らねばならない。悔しさで唇が震える、躊躇したが言うしかなかった。
言葉が濁る、声が掠れる、手が震える。
「あ……え、えっと、その、ちょっと今日はというか、今から出かけなくちゃ駄目で。ごめんなさい、すごく行きたいけど……」
『そっか。気にするなよ、用事があるなら仕方がないだろ? んじゃ、また明日。学校で』
「うん! おやすみなさい」
アサギは深い溜息を吐き、通話が終わってしまったスマホの画面を見つめる。ミノルがせっかく連絡をしてくれたというのに、応じられないとは情けない。
「行きたかった、なぁ」
しかし、今はトビィが優先だ。一命は取り止めたが、本調子ではない。彼を置いて、ミノルに会いに行く事が出来なかった。『気にするな』と言ってくれたことが嬉しく、言葉に甘えることとする。
「会いたかった、な。でも、ミノルが優しくてよかったな。断られると、寂しいものね。相手に用事があっても、少しだけへこんでしまうよね」
呟きながら、アサギは宿題を持って異界へ戻った。
用意されていた食事を運び、途切れ途切れで意識を取り戻すトビィに食事を勧め会話した。そうして懸命に宿題を終わらせ、疲れ果てて傍で眠る。
「す、少しだけ眠ったら、おうちへ、かえ……すぴー」
すぴー。
アサギが寝息を立て始めたので、
「やれやれ。もっと効率よく回復させてやればよいのに、まったく面倒なことよ」
眠たいのに無理やり起きたからか、身体中が痺れている。
「さて、いつぞやの、いや……
ギシッ。
寝台が、軋む。眠っているトビィに跨り、形の良い艶めいた感じさえする唇に指を添える。
「さて、しかして
端正な顔に近づき、そっと唇を合わせる。思ったより冷たいので、温める様に舌先で嘗め回した。そして、唾液を送り込む。喉が動いたのを見届け、身体を離す。
少しだけ、人肌を思った。
確かにトビィに借りは返した。これでもう、今後どのように凄惨なことが起ころうとも、余程の事では死なぬ。
「では、またな。トビィ」
翌日も学校から戻ったアサギはトビィの元へ向かい、甲斐甲斐しく看病する。
「こんにちは。御機嫌はいかがですか?」
「アサギが傍に居てくれたら、この通り元気だが?」
「……元気そうで何よりです」
困ったように笑うアサギに、トビィは瞳を細め熱っぽい視線を送る。この時のトビィは、アサギの兄役ではない。隙あらば色恋事に持ち込もうと、無駄に躍起になっていた。
つまり、トビィはほぼ完治している。
宿題をしているアサギを見つめつつ、トビィは言い辛そうに開口した。
「なぁ、アサギ」
「はい。どうしました、飲み物ですか?」
「いや、そうではなくて。……昨晩のことだが」
「昨晩?」
アサギは不思議そうに首を傾げ、眉間に皺を寄せる。
「いや、勘違いだ。今のは聞かなかったことにしてくれ」
「そうですか? ふふっ、寝ぼけていらっしゃったんですね。怖い夢でも見たのですか?」
「怖いというか……酷く幸福で、現実が奈落の底に思える夢だった。だが、途中で気味の悪い何かが侵入してきたから、やはり嫌悪する夢だったのかも」
瞳に絶望の色が落ち、ギリリと拳を握り締める。そんなトビィを見て、アサギは一体どんな夢だったのか多少興味が湧いた。
「疲弊しているから、夢にも影響が出ているのですよ。今はゆっくりなさってください。果物食べますか?」
「果物より、アサギが作った汁物が飲みたい。野菜がたくさん入っていて、とろみのある……」
「汁物、ですか。うーん……」
他愛のない会話は、連日続いた。法悦の瞳でアサギを見るトビィは、すでに虜。
アサギは、トビィの顔色が正常であると気づきつつも、本人が「まだ辛い」と言うので足を休めず通う。
そうして遅くに地球へ戻ると、ミノルからの着信に気づく。それも、連日の事だった。着信の後、必ず短いながらもメールが届いている。トモハルが知ったら、不義理なミノルにはあり得ないと驚愕するだろう。
それ程までに、ミノルは切羽詰まっていた。
アサギは地球に戻る度に時間を気にし、かけ直すかメールで謝罪するかしていたが、話は進まなかった。そして翌日、どこか気まずそうな二人は、ぎこちなく校内で会釈をする。
アサギは、トビィの話をしなければと思った。後ろめたい事は何もないが、このままでは疑われて当然だと反省した。
ただし、色々と説明に時間を要する。そもそも、何故過去に飛び、トビィを連れて来られたのかアサギにも解っていない。ただ、彼を救わねばならないことだけは、理解している。
「どう説明しよう……」
ありのままを話したところで、理解してもらえるのだろうか。アサギは、定まらぬ考えに瞳を濁した。