紅痕
文字数 5,383文字
「城に仕官していなくても、誰でも食べる事が出来ます。安価で、美味しい」
サイゴンが、曇りなく笑って、瞳を輝かせているアサギに説明する。
元々は士官者達専用の食堂であったが、アレクが一般人にも開放した。その為、いつ来ても混雑している。
「ここで盆をって、好きなものを選んでいくの。勘定は最後だから……今日はハイ様の奢りで良いのかしら? 良いですよねん?」
盆を手渡しながら、ホーチミンは半ば強制的にハイに振った。
「お、おい、ミン! お前、幾らなんでも図々しいだろう」
「うむ、構わぬよ」
サイゴンは慌てふためいたが、機嫌が良いハイは海の様に広い心で了承した。
「申し訳ないです、頂きます」
緊張気味に頭を下げたサイゴンは、当然とばかりに不敵に微笑んでいるホーチミンを軽く睨む。
「何を食べようかな、ええっと」
光沢のある木の盆を渡されたアサギは、嬉しそうに笑うと物珍しそうに周囲に視線を走らせる。
客からの注文を都度受けるのではなく、本日並んでいる品の中から選んでいく。減ってきたら補充すればよいので、作り手側も楽だ。種類は豊富で、誰もが楽しめる。
「アサギちゃん、見て。本日のおすすめはあれよ。……読めるかしら?」
ホーチミンは、『本日の御品書き』と書かれた板を指した。
「カ……カランケ? って何ですか?」
「あら、読めるのね、賢いわっ! カランケは、白身魚よ」
一瞬怯んだものの、アサギは魔族の文字をたどたどしくも読んでいく。
感心して頷いているハイの後方で、アイセルが冷静な瞳でそれを見つめ、サイゴンが瞳を丸くした。
「勇者って魔族語も嗜んでいるのか? すごいな……」
「勇者、というより、アサギ様だから、だと思う」
低く呻くように漏らしたサイゴンに、アイセルが小声で漏らす。
「私、お魚にします」
「ええ、ほっこりしていてとても美味しいわよ!」
ホーチミンは、さりげなくアサギを覗き込んだ。見間違いではなことを確認したい、無数の紅い痕を求めて、獲物を狙う肉食動物の如く瞳に光を灯す。
「んん、んんんー! んふんっ」
見間違いではなことを確認したホーチミンは、和気藹々と好きなものを盆に乗せながら語っているアサギとハイを羨望の眼差しで見つめる。
「はぁん……。陰気な男を光の下に連れ出した美少女。歳の差はあれど、情熱の炎はそんなことでは消えやしない! ああん、想像するだけで身体が火照っちゃう!」
「ミンは一体どうしたんだ」
身体をしならせて興奮しているホーチミンに、事情を知らないサイゴンは恐れ戦いた。
実際男だが、女のようなホーチミンにアサギはすっかり気を許している。
ハイもホーチミンの性別を知らない為、馴れ馴れしくアサギに寄り添う姿に頬を軽く膨らませ嫉妬するものの、「同性ならば仕方がないか」と吐き捨てた。
聞こえてしまったアイセルとサイゴンは蒼褪めた顔を見合わせたが、真実を伝える勇気もなく、口を閉ざした。いつ露見するか、考えただけで恐ろしい。
「ま、まぁ、ミンは男だが人畜無害だからな、うん」
「サイゴン以外、目に入っていないもんね。いいねぇ、慕われてて!」
「……本気で思っていないくせに。茶化すのは止めろ」
気楽に会話しつつ並んでいると、ハイに気づいた主任が血相を変えて飛んで来た。別席を用意するとのことだったが、雰囲気を味わいたいと辞退する。主任的には客が魔王の存在に委縮してしまうことを恐れたが、酒が入っている者も多く、特には気にしていない様子だった。
「ハイ様。万が一がございますので、私共も全力で護衛する所存です」
静かにホーチミンに囁かれ、ハイは神妙な顔で頷いた。
「かたじけない。しかし、この場で騒ぎを起こす度胸のおる者などおるかな」
「念の為に」
アサギには聞こえないように、目配せをする。彼女の意思を尊重し連れてきたが、ここへは誰でも入店できる。全員、最悪の事態を考慮していた。
なるべく隅の席を確保し、はしゃぐアサギに気取られないよう着席した。
「いただきます!」
アサギは早速、白身魚を口に含んだ。香草と共に焼いてあり、表面はパリッと、中はフワッとしている。感激して小さな悲鳴を上げる。
「とっても美味しいです!」
「アサギちゃん、こちらもどうぞ。 みんなで小皿に分けて食べましょ」
「はい!」
「ど、どれアサギ。私のも食べてみると良いぞ!」
魚介類をふんだんに使用した炒め物を、いそいそと皿に乗せてアサギに差し出したハイは照れ臭そうに笑った。
「うむ、こうして皆で食事をとるのは、愉快だな」
「そうですね、とっても楽しいし、一層美味しく感じられます!」
二人の距離感が近い気がしたホーチミンは、隣で生野菜をガリガリと齧っているサイゴンに苛立ちつつも、血走った瞳で二人を見やる。
「うふふ……まだ食後のお茶まで時間はあるものね。一体、何があったのか。おねーさん、知りたいわ……。うふふんっ」
「おにーさんだろ?」
恍惚の笑みを浮かべていたホーチミンに、サイゴンがすかさず突っ込みを入れる。そして、脚を思いっきり踏まれて激痛に喘いだ。
アイセルはそんな面々を眺めつつ、ひたすら酒を煽る。酒豪なので、この程度では酔わない。あっけらかんとしているが、現在、最も気を張り詰めているのは彼だった。
……特に異常なし、と。まぁ、魔王ハイ様に俺達が揃っているところで襲撃する馬鹿はいないよな。勝ち目がないもん。
鋭利な視線を周囲に走らせながらも、時折相槌を打って輪に溶け込む。
「アイセル様は、何を食べてらっしゃるんですか?」
そこへ、何も知らないアサギが声をかけた。
天真爛漫に微笑んでいるが、アイセルは引き攣った笑みを浮かべる。即座にハイからの無言の圧力が、見えない矢として身体中に突き刺さった為だ。昼間、庭でアサギと会話した件を根に持っているらしい。
「お、お姫様、俺に敬語は止して下さい。アイセル、で構いません」
「でも、年上の方ですし。呼び捨ては無理です。それに、私もお姫様ではなくて一応勇者なので、“アサギ”や、“勇者”と呼んでください」
「んー、どちらかというと、雰囲気が勇者より姫様っぽいので。それから、俺は“様”づけで呼ばれたことがないから歯痒いですねー」
「勇者より、姫っぽい……」
困惑したアサギが瞳を伏せたので、アイセルは慌てて立ち上がり弁明する。
「失言でしたね、申し訳ありません。ええっと、その、お好きに呼んでください。だから俺もお姫様と呼びます。おあいこですよ」
ガゴッ!
突然響いた音に、周囲が静まり返った。
ハイの脚が、床にめり込んでいる。沸々と怒りを感じる空気が、アイセルを捕らえていた。
……アサギに軽々しく話しかけることも、哀しませる事も、一切禁止。
黒曜石のようなハイの瞳が、そう語っていた。
アイセルだけでなく、ホーチミンとサイゴンも背筋を凍らせる。瞬時に身の危険を感じた三人は、全力で頷いた。
「え、えーっと、あ、あはははは! あ、そうそう、俺の食べてるものでしたね? これは、豚の挽肉とキビを練りこんで油で揚げた肉団子だと思ってもらえれば。この辛目のタレをつけて食べます。酒のツマミに最適です」
「わぁ! 一個ください」
「どうぞ、どうぞ。ハイ様もご一緒に、ね、二人で仲良くっ」
「うむ、では戴こうとしようか、アサギ?」
上司に気を遣わねばならない、厳しい縦社会の現実だ。失態を晒せば、文字通り首を斬られる。
肉団子を頬張る二人を見つめつつ、ホーチミンは再び妄想へ旅立った。
「あらやだ、アサギちゃん。大きな玉を、そんなに小さなお口に含んで……。一生懸命、動かして……。美味しいのね、頬が紅潮してる。汁が付着した唇が、淫りがましいわ。いいわよねぇ、年上男と美少女の恋物語。滾るわねっ」
首を左右に振りながら、陶酔している。
「玉って言うな、団子だ」
サイゴンは軽蔑の眼差しでホーチミンを睨み、嘆いた。自称乙女であるホーチミンは、昔から恋話が大好きだった。ハイとアサギに感化されていることは明らかだし、詳細を知りたいのだろう。つまり、ひいて災厄が自分にも降りかかる。
「あぁん、もう、想像しただけでミン、困っちゃうっ」
魔王の色恋事だけでも病的な好奇心を見せるのに、相手が勇者の美少女となれば、暴走するしかない。身体を震わせて身悶える、何を想像したのかは当人だけが知っていた。
「だって、二人は本来ならば敵同士。ま、まさかハイ様、身体でアサギちゃんを屈服させたりしてないでしょうね!? 『フフフ、勇者よ、先程までの威勢はどうした』『クッ、魔王になんて、屈するものですか! で、でも、約束してください。仲間達には手を出さないと!』『クックックッ、それはアサギ次第だなぁ? さぁ、私を存分に愉しませるがよい……』『あぁっ、みんな……。でも大丈夫、私一人の犠牲で助かるのであれば』って、そうなの、そうなのね!? やだっ、どうしよう、本が書けそうよ、私!」
「頼むから大人しくしててくれないか……。極刑になりかねんぞ、お前のその思考は」
身悶えしているホーチミンを見つめながら、アサギはのほほんと笑う。
「皆さん、愉快ですね」
「まぁ、奇妙な面子が揃っているな。アレクの選抜基準がよく解らぬ……」
げんなりとした様子でハイは三人を一瞥したが、彼らの実力を知らない。
「ねぇねぇ、アサギちゃん。明日はどうなってるの? 予定はあるの?」
ホーチミンが身を乗り出すと、アサギはハイを見上げ、返答を委ねる。委ねざるを得ない。
「明日はまだ考えていない。何か案でも?」
嬉しそうにホーチミンは手を叩くと、興奮冷めやらぬ声を出す。
「買い物へ行きましょう。私、女の子の友達がいないから、一緒に行ってくれると嬉しいの」
「買い物! わぁ、行きたいです!」
ホーチミンは、心は女だが男。しかし、女の友人が多いわけではない。同性からも異性からも嫌煙されていた。その持ち前の美貌が疎まれる対象の一つでもあるが、本人は気にしていなかった。努力して、自慢の体型も美肌も維持している。「男のくせに気味が悪い」と人を見下す前に、自身を愛し磨けばいいのにと嘆いて女達を見やった。
「行きましょう、ハイ様。私とサイゴン、アサギちゃんとハイ様で合同逢瀬ね! きゃっ、楽しみ!」
大はしゃぎで飛び跳ねるホーチミンの傍ら、サイゴンが頭を抱えて項垂れる。
「御愁傷さま」
同情したアイセルがサイゴンの頭部を撫でると、悲痛な呻き声を発して突っ伏す。
それを無視し、密着するようにホーチミンはサイゴンにしなだれかかると、甘えた声を出した。
「なぁ、ホーチミン? 俺は? 無視って酷くない?」
この場に居るのに、名前すら挙げてもらえない事に動揺を隠せず、不貞腐れたアイセルは不服の声を漏らす。
「アイセルは駄目よ、彼女いないでしょ。これはあくまで、逢瀬なのよ。誰か連れてくるなら、来てもいいけどー?」
「ちぇー」
唇を尖らせ、そっぽを向くアイセルの傍ら、テーブルに突っ伏したサイゴンがくぐもった不満の声を上げた。
「待て待て、それを言うなら勝手に俺を相手に決めるなよ。どーして俺がお前と逢瀬する事になってるんだ。恋人じゃな」
ささやかな抵抗は、背中に爪を立てたホーチミンによって無効化された。
「ね? 良いでしょう、ハイ様」
「アサギが行きたいというのであれば、何処へでも」
ハイから許しが出たので、アサギとホーチミンは手を合わせて笑顔を見せる。
無邪気に喜ぶアサギを見ているだけで、ハイの顔は始終綻んだままだ。逢瀬、という単語にアサギが嫌悪感を示さずすんなり受け入れてくれたことも、幸せな事この上ない。
ハイは感謝の念を籠めて、ホーチミンに軽く視線を送った。
間入れず、しなりん、と身体をくねらせたホーチミンが『私にお任せくださいませ』と唇を妖艶に動かした。
ハイにとって、ホーチミンは恋愛事において最も頼れる人物になりつつあった。色恋事から全く無縁の生活を送っていたので、強力な助っ人である。
「楽しんで来て下さいね」
悲しそうに告げたアイセルに、アサギは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ん?」
その瞬間、アイセルも気づいた。
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていたので、ホーチミンがほくそ笑んで衣服を引っ張る。
「アンタも見た?」
「み、見えた……」
悪戯っぽく瞳を光らせたホーチミンと、口元を押さえ真っ赤になったアイセルは、「それではお先に失礼します」と去っていくハイとアサギを見送った。
「ま、まじか」
「今日は徹夜で、ミンちゃん張り切って妄想を書きしたためるわっ」