炎と水と土
文字数 4,206文字
身体中を突き刺すような熱に、トビィは気詰まりを覚えた。耳障りな勝利の雄たけびを上げているトランシスは無視し、両手に力を籠める。下卑た嗤い声が勘に障るが、集中する。
愛剣ブリュンヒルデであれば、宿る水の力にあやかることが出来たのかもしれない。しかし、今は単なる木刀だ。今まで魔法の類を羨ましいと思った事はなかったが、初めて渇望した。
トビィに魔力は宿っていない。扱い方も、当然知らない。
その筈だった。
『何者でしょうなぁ、人間殿。しかし、我らが水の眷属の根本は、貴方様に繋がっていると……確信してしまいました』
数年前に水竜族の長が発した言葉が、足先から頭上を突き抜けた。
掴んでいた木刀が、急速に冷え始める。掌から、心地よい研ぎ澄まされた感覚が身体中を駆け巡る。
それは、何処か懐かしいものだった。山に染み込んだ雨が、浄化され湧いて出た清水のような。喉を潤す爽やかな水を含んだ時のように、鮮烈な感覚。
ピリリ、と皮膚が突っ張る。頭部が引っ張られ、耳元で誰かが囁く。トビィは、大きく双眸を開くと素早く木刀を振り下ろした。
逃げもせず炎を受け止めようとしたトビィに、周囲は慌てふためき救出に向かうべく走り出す。いくらなんでも無謀だ。
けれども、アサギは身動きせずじっとしている。それが何よりトビィが無事であるという証。
トランシスが大きく顔を歪め、激昂した。
今にもトビィを飲み込まんとしていた炎は、盛大な蒸発音を上げた。まるで岩が真っ二つに割れるかのように、火球がゆっくりとずれていく。
徐々に消えていく火球と、周囲を覆い尽くす水蒸気に唖然とする。その間から不敵に微笑むトビィの姿が現れると、仲間たちは歓声を上げた。
トビィが手にする木刀は、若干焦げていた。しかし、一部が煤けているものの、形はそのままだ。
「ぅ、あ」
言葉にならない悔しまぎれの声を発したトランシスに、トビィが迫る。間合いを詰め、左から木刀を薙ぎ払い真顔で告げた。
「火は、草木の命を奪う。水は、草木を育てる。火は、何も産まない。跡形もなく消し去ることしか出来ない、多大な犠牲を出して」
メキィ、と鈍い音が響く。トランシスの脇腹に、木刀がめりこんだ。
「オレは、火から芽を護る水」
唇を若干動かしトランシスに視線を投げかけたトビィは、つまらなそうに鼻を鳴らすと踵を返した。
勝負は、すでについている。
受ける、いや、構えることすら出来なかったトランシスは、白目を剥くとそのまま地面に倒れ込んだ。
「トランシス!」
崩れ落ちたトランシスに、待機していたアサギがすかさず駆け寄った。冷静に回復の魔法を唱え、周囲を優しい壁で覆う。
アサギが全力で治療にあたるのだから、すぐに完治するだろう。トビィは温かな光を背中に受けながら、目を白黒させているアリナに真顔で片手を上げた。
引き攣った笑みを浮かべ、遅れてアリナも片手を上げる。
「……流石トビィ。炎をたかが木刀で斬るなんて荒業、普通出来ないヨ」
「だろうな、オレにも不思議だ。無我夢中で」
すすけた木刀を太陽に翳すと、焦げた臭いが鼻に纏わりつく。木刀は、特殊なものではない。
「ご謙遜を」
先程の態度は、自信に満ち溢れていた。トビィの戦闘感覚は計り知れないと改めて実感し、身震いしたアリナはアサギに抱えられているトランシスを一瞥する。
「で、あれはどうなのさ。期待出来そうかな? アサギの隣に立つ以上、それ相応の力が必要だと思うけどね」
期待は薄いよね、と首を横に振るアリナにトビィが同意する。
「てんで素人だ、炎を扱えたところで技量が追いついていない。この場にいる面子なら、誰でも勝てる」
さり気無くミノルに視線を移したトビィだが、生憎彼は気を失ったままだ。無音の溜息を吐き、苦笑する。
「ただ……」
表情を曇らせ、眉を顰めたトビィは木刀を弄びながら腑に落ちないとばかりにしかめっ面をした。
「アイツ……食事の後、力が跳ね上がった」
「腹が減ってたから、早朝は元気がなかったんじゃないの? それとも、十分に身体が温まってなかったとか」
「いや、そんな単純なことではなく」
相手にせず軽口を叩くアリナだが、それは対峙したトビィにしか解らない事だった。
普通ならば有り得ない事だが、確実にトランシスの力が増していたのだ。移動速度にしろ、炎を扱う技量にしろ、無鉄砲な虚勢にしろ。炎を操る事は知っていたが、巨大な塊を意のままにする能力は最初から備え持っていたものなのか。
アサギが加護を授けていた形跡はないので、トランシス自身の能力である。
「何故だ……」
トビィは忌々しいと思いながらも、アサギの腕の中にいるトランシスを睨みつける。寝息を立てているところを見ると、すでに完治したのだろう。鼻っ柱を折りたくなるほど、癪に障る穏やかな表情で眠っている。それすらも、こちらを逆なでする演技のように。
その顔が、一瞬だけ瞳をカッと見開き、トビィに向かって嗤った。
寒気に肌が粟立ち、反射的に木刀を構えようとしたトビィだが、力を籠めて握った頃にはトランシスの瞳は閉じている。
錯覚か、それとも現実か。
「相変わらず、不気味な奴」
心底嫌そうに吐き捨て、冷たい瞳の色で蔑むように見下すと、トビィはその場から離れた。他の皆もトランシスを多少気にしつつ、散って行く。見世物は終わったのだ。
気絶したままのミノルをどうにか背負い、トモハルも一旦部屋へ退却することにした。戻り際に、アサギに声をかける。
膝枕をしてトランシスの髪を撫でていたアサギは、近寄ってきたトモハルに微笑したが、背中のミノルに気づき不思議そうに首を傾げた。
「ミノルはどうしたの?」
ばつが悪そうに引き攣った笑みを浮かべて言葉を濁したトモハルは、目を泳がせる。ミノルは、未だアサギに想いを寄せている。
しかし、アサギはそれを知らない。彼女の中で、ミノルの恋人は憂美のままだ。二人の経緯も結末も、誰も話していなかった。
「な、なんでもない。それにしてもトビィに喧嘩を売るその人は、ある意味凄いよね。俺は絶対無理、勝てるわけがない」
「そうかな、トモハルも頑張れば並べそうだよ」
涼し気な春の風に似た笑顔を浮かべたアサギに、脱力する。
「はは、冗談だろ。……で、彼氏さん大丈夫?」
「うん、大丈夫。でも、少しは手加減すると思ってたからびっくりしちゃった」
するわけない! と心の中で叫んだトモハルは、ぷくっ、と頬を膨らませているアサギに苦笑する。二人の間に亀裂が走っている事が、何故解らないのか。
このままアサギを会話をしていても構わなかったが、ミノルが目を覚ましても面倒だ。長居は無用と、足を動かす。
「お大事に」
「ありがとう」
空気は、緑を含んだ夏のような香りがする。もう、暦上では秋なのに。
暫し、アサギはトランシスを膝の上に乗せたまま瞳を閉じた。胸いっぱいに空気を吸い込み、吐く。髪に指を通し、愛おしく撫でる。滑らかなその髪に触れているだけで、心が軽くなり宙に浮いてしまいそうだ。
とても幸せな時間だった。そこだけ、時間が止まっているようで。
やがて、目を醒ましたトランシスは極まり悪そうにそっぽを向くと舌打ちする。
「悔しいな、アサギの目の前で負けてさ。情けない」
「仕方がないよ、トビィお兄様はこの世界で一番強い人だもの。それにしても、トランシスは炎をあんなふうに操ることが出来たんだね。すごいね!」
「ああ、アレ」
炎を飛ばすことならば、アサギにも可能だ。大きさも変える事が出来る。
しかし、先程のように軌道を変えることは、おそらく不可能だろう。追撃出来る魔法は便利だと、アサギは感心して顔を綻ばせる。
「オレも初めて知った、あんなことが出来るなんて。驚き」
しみじみと呟き右手を空に翳したトランシスに、アサギは瞳を丸くする。
「え!? そうなの!?」
「そだよ。あんなことしたの、初めて」
「天性の素質なんだね! やっぱりトランシスは強い人だね」
無邪気に微笑み褒めちぎるアサギに、トランシスは頬を赤らめる。嬉しくて興奮しているその表情は見ていてとても可愛く、先程の胸糞悪い出来事すら吹っ飛んだ。その笑みが自分に向けられているということも感極まって、こちらまで満ち足りた気持ちになる。
「アサギの為に、オレはもっと、もっと強くなる。そうしたら、いつかアイツを倒してやるよ」
意気込みを表したトランシスに、アサギは穏やかに微笑んだ。
「ふふ、頑張ってね」
「ん」
スカートの布越しに伝わる柔らかなアサギの太腿を堪能し、トランシスは上機嫌でにんまりと口元に浮かべる。
「負けても、オレには褒美が待ってるし」
手首を捕まえ、そっと唇を寄せた。ぴくん、と反応したアサギに悪戯っぽい視線を投げると、そのまま甘噛みする。
「っ!」
歯を小刻みに動かし幾重にも歯形をつけ、窪んだそこを舌先でなぞる。
アサギの頬が上気し恥ずかしそうに俯いたのを確認すると、トランシスは甘えた声を出した。
「アサギ」
「な、なぁに?」
上擦った声のアサギに、挑戦的な瞳を向ける。それは、抗えない呪縛だ。その囁きから、決して逃れることは出来ない。
「口づけして。頑張った褒美、頂戴。今、ここで。今度こそ、アサギからして」
身体を強張らせたアサギだが、周囲を窺い誰も見ていないことを確認すると、ゆっくりと腰を曲げて唇を合わせる。
トランシスは優越感に満たされた顔で、笑いを零しながら口づけを堪能した。
「あ、あのっ」
「ん、何?」
「トランシスに、武器を用意しようと、思って。その、今度会う時までに」
「へぇ? それは嬉しいな。トビィが不思議な剣持ってるだろ? あれに匹敵するくらいの、欲しいなぁ」
子供が店先に飾られている玩具を強請るように、トランシスは何気なく言う。
トビィの剣ブリュンヒルデは、唯一無二の特殊な剣だ。勇者の武器に匹敵すると言っても過言ではない。それと同等のものとなると、そこらにはない。
アサギは粘着音を聞きながら、思い当たる剣を思い浮かべる。トランシスに相応しい剣、それは火を操る想い人に持って欲しい剣。
ようやく二人の唇が離れると、アサギは空を仰ぐ。
この空には、神の居城が浮かんでいる。
「また。……宝物庫に、行かなくちゃ」
確信し、呟いた。