外伝3『ABHORRENCE』8:友好の証
文字数 3,288文字
しかし、僅かな望みを抱きトリアはそこへ向かった。胸の鼓動が早くなる、瞳に焼き付いて離れない麗しい美少女に、触れてみたいと願う。森の木々に祈り続ける、どうか彼女に逢わせてくれと。
雨でぬかるんだ地面を、クレシダは器用に駆け抜ける。鬱蒼とした森の中に突如として広がる花畑は、人の手が入り込んでいたかのように美しい。
昨日と同じ場所にクレシダを待たせ、挑むような視線を向けたトリアは歩き出す。マントに付着した水滴を払うと覗かせていた太陽を眩しそうに見上げ、口元に笑みを浮かべる。
いつしか雨は止み、見れば綺麗な虹が空に架かっている。吉兆だと信じた。
贈り物の首飾りと小さな袋に入った焼き菓子は雨に濡れず無事で、安堵の溜息を漏らす。濡れないように気遣い、胸元にしまい込んでいたのが幸いしたようだった。
草の海を進んで行くと、木の根元に細い腕が見えた。
「いた!」
瞳に飛び込んできたそれに破顔し、多少緊張した面持ちで音を立てぬよう木へと近づく。逸る胸を必死に抑え、そっと覗き込む。
木にもたれて眠っているらしい、あどけないような、それでいて艶めいた寝顔だ。
息を飲む、あまりの美しさにトリアは胸を鷲掴みにされた。それは、今まで見てきた世界の何よりも美しく尊いものだった。
「寝てる……」
雨宿りをしていて眠ってしまったのだろうか、大木の見事な葉を見上げそう感じたトリアは、息を殺してしゃがんだ。
そして、陶酔し見入る。
姿形は人間に似ているが、背にはこの世のものとは思えない美しい羽がある。まるで、空にかかえる虹のような色合いだ。危なげで儚い神秘的なものに思え、軽率に触れてはいけない存在だと第六感が警告している。
頭上にのっている白詰草の花冠が、妙に神々しく見えた。
「どう見ても人間じゃない……よな」
分かり切ったことを口にしたが、そんなことはどうでもよかった。
吸い込まれそうな美しさに、鼓動が早鐘のよう。朦朧とする意識の中で芽生えた感情を、何と呼べばよいのか。静かに寝息を立てているその姿が愛しくて、震える指で頬を撫でる。
「ん……」
身動ぎしたので、慌ててトリアは指を引っ込めた。起こすのは忍びない、息を押し殺し夢中でその姿を見つめる。目が覚めたら、昨日のように逃げてしまうかもしれない。
「ゆっくりおやすみ……良い夢を」
そっと。
未だに震えている指でアニスの前髪をかき上げ、露になった額に唇を寄せた。触れないように、口付ける真似ごとをする。
それから、購入した首飾りと焼き菓子をアニスの膝に静かに置いた。自分の額に巻き付けてあった愛用の布を外し、上から被せる。
「次に逢えたら、何か話そう」
身を焦がすような愛しさに耐えながら、優しく囁いた。起きるのを待っているべきか迷った、待つのは一向に構わない。寧ろ、その寝顔を見ていられるのだから退屈しないどころか、心は満たされる。
だが、目覚めた時に驚かせてしまうだろう。そう考えると、いたたまれない。大きな瞳を更に開いて、素っ頓狂な声を上げそうだ。
そんな姿も見たい気もするが、それはただの利己主義。トリアは暫く眺めた後、ゆっくりと重たい腰を上げた。
「今回が今生の別れになることもないだろう、機会はこの先幾らでもあるはず」
自身に念を押すように告げ、名残惜しそうに何度も立ち止まり、振り返ってはアニスを見ながら離れていく。
「では、また」
草をはんでいたクレシダに乗り、トリアは花畑を後にした。
首飾りは、産まれて初めて異性に購入する贈り物として妥当だったから。焼き菓子は、多くの女子が好むものだと思っていたから。
そして、自分の布を渡したのは自己顕示の現れ。ここへ来たことの証であり、アニスに自分を印象付けたかった。
「妖精に喜ばれるかは、些か不安だが」
トリアはクレシダに揺られながら呆れて呟く。しかし、それくらいしか自分に出来る事が思いつかなかった。
心を奪われた娘は、人間ではなく妖精。何かしてあげたいと思った、護らねばとも思った。芽生えてしまった、抑えがたい恋着の情に苛まれる。
愛らしい、傍にいたい、笑顔を見ていたい、親しくなりたい、そして、大事にしたい。
それは、遠い昔から胸に巣食っていた感情。ただ、相手が誰だか分からなかった。
瞼を閉じれば、彼女の顔が浮かんでくる。見たままの映像が、鮮明に絵巻の様に流れてくる。これを、恋と呼ばぬというならばなんと言い表すのか。
森の妖精に一目惚れする運命だったと、誰が予想出来ただろう。
「やれやれ」
困惑し溜息を吐くが、笑みが零れる。
喜ぶ顔が早く見たい、それだけ。
太陽に向かって咲き誇る向日葵のような、眩しい笑顔なのだろう。見たことがないはずの笑顔を、トリアは知っている気がしていた。
そして、ひどく惹かれている。
頭上にふわふわとした温かなモノ。
「アニスー、起きてーっ」
深い眠りの中にいたアニスは、耳元で名を呼ばれ重たい瞼をそっと開いた。頭部に腕を伸ばすと、指先に絡みつくように栗鼠が飛び乗ってきた。
「こんなところで寝ないでよ、木の上にしてよ! どうしてそうも危機感がないのさっ」
大きな瞳で覗き込んできて、寝ざめ早々叱咤される。可愛らしいその瞳が、恐ろしいほど吊り上がっていた。気づけば、数匹が忙しなく身体中を走り回っている。
「遅かった! 見慣れない物が置いてあるよ」
「鷹さんが見てたって、トリアって人間が置いていったんだって! 危険だよ、山鳩のように射ぬかれてしまうよ!」
寝起きの脳は、彼らの会話を認識してくれない。アニスは首を前後に軽く振りながら、小さく欠伸をした。切羽詰まった栗鼠たちと裏腹に、焦ることもなくのんびりとしている。
暫くして視界に飛び込んできたのは、膝の上にある布。来ている服と似た素材だと思い、そっと触れる。記憶の糸を辿り、トリアの額でこれと同じものを見たと気づいて唇を綻ばせた。
「……あぁ、わかったトリアの」
「だからっ! さっきから、そう言ってるじゃないかっ」
急迫した事態を察しないアニスに、栗鼠は苛立つ。
「寄越しなよ、危ないからっ」
「あっ」
勢いで布を引っ張ると、別のものが出てきた。見慣れぬ物に仰天し、栗鼠らは慌ててアニスにしがみ付く。
「それを返して」
アニスは小さく溜息を吐き、怯えている栗鼠から布を受け取った。そうして、失わぬように左手に巻く。
「これは、なんだろう?」
太腿の上に置かれた、何か。どちらも初めて見るので当惑する。
微かに漂う甘い香りに、栗鼠たちが過敏に鼻を引くつかせた。
「良い匂いがする」
「ねー、良い匂いだよねー。危ないかな、人間の罠かな!」
匂いは袋から滲み出ている。奪うように転がし、リボンを咥え引っ張ったり、袋に爪を立てた。おっかなびっくり中身を引っ張り出すと、好奇心旺盛な瞳で瞬きする。焼き菓子など知らない、だが、甘い香りに釘付けになる。
「新種の木の実かな? 美味しそう」
人間は恐ろしいが、これは気になる。そわそわと身体を揺らし、何度も口を開いて食べようと試みた。
「毒入り?」
「罠?」
「死んでしまう?」
「……きっと、大丈夫!」
栗鼠たちは目配せすると、布を見つめたまま微動だしないアニスを尻目に菓子に噛り付いた。
「ふむっ! おいしいっ! 何これ!」
「わぁ、あっまーい。 おいし、おいしっ」
「森にもこれが生る木があればいいのに、変わった木の実だねぇ。殻がなくて、ホロホロ溶ける感じ!」
小麦粉に牛乳、蜂蜜、玉子、砂糖と砕いた胡桃を混ぜ合わせ、適当な大きさに丸めて潰し釜で焼いたものだ。焼き菓子の存在を知らない栗鼠たちは、森にはない木の実だと思いこんだ。
その甘さに感動し騒ぎ立てる栗鼠たちに気づいて、空から
「それは何だい?」
「珍しい木の実!」
無我夢中で貪る栗鼠たちに乗せられ、地面に散らばった菓子を皆でつついた。
「ほぅ、美味なり」
「うんまーい!」
個々に歓喜の声を上げ、笑みを零す。
「アニス、大丈夫! これは間違いなく上質の木の実だ!」