炎の様に揺らめく影
文字数 3,100文字
「アサギ、アサギ、アサギ!」
「はい、はい、はい!」
ハイに呼ばれた分だけ律儀に返事をするアサギだが、戸惑いを隠せずにいる。目の前の瞳は、曇っており虚ろだ。出会って数日だが、確信を持って普段と違うと断言できる。
リュウが西瓜に混ぜた媚薬の効果で、ハイの思考回路が狂っている。しかし、この二人が知るはずもない。
「あ、あの、ハイ様! もしもしっ」
乙女の直感、脳からの指令は『防御せよ』。目の前にいる“男性”は危険だ。アサギの小さな身体は、すっぽりとハイに覆い隠されてしまった。大木の根に押し倒されて、固唾を飲み身を縮ませる。
「っ、くるしっ」
追い打ちをかけるように、ハイがさらに体重をかけ圧迫してきた。
アサギの上擦った焦燥感の混じった声に、一瞬ハイは瞳を開く。しかし、再び熱に浮かされた蕩けた瞳に戻ると、右手でアサギの髪に触れ、頭部を撫で、唇を近づける。
「っ!?」
驚いて瞳を硬く閉じたアサギだが、混乱しつつも何処か冷静だった。
叫んでも誰も来ない事は知っている。体格のよいハイが相手では、アサギなど微力。以前習った痴漢撃退法をやってみるべきか、いや、しかしハイは痴漢ではない。
思考回路が半崩壊するも、考える余裕は残されていた。流石に、口付けをされそうなことは察している。
アサギの脳裏に、何故か三つの影が浮かんだ。
救いを求め、影に手を伸ばす。
一人はミノルだったが、横を向いている。こちらには気付いていない様だ。
一人はトビィだった、手を伸ばしてくれている。
……え? 誰……? だ、れ?
そして、もう一人。
おぼろげだが、じっとこちらを見据えている。顔は見えないものの、トビィと同じくらいの年齢に思えた。影は次第に大きくなった、いや、近づいてきている。
すると、影が近づくたびにミノルとトビィが透けて、消えてしまった。
唖然としたが、影からの突き刺さるような視線を感じ、息を飲んで唇を噛む。影が、怒っている様に思えた。
その影は、射抜くような鋭い視線でこちらを見ている。それは片想いのミノルではなく、憧れのトビィでもない。
「だぁれ? ハイ様ですか?」
怖々と、呼びかけてみた。しかし、影は怒った様に身体を揺らしている。激しく首を横に振り、否定している。
「解らないんです、その、顏が見えなくて。えっと、どなたですか?」
不思議な感覚だった。解らない、というのは正直な気持ちだが、心の何処かで目の前の影が誰なのか知っている様な気さえしている。名前を呼べない事が歯痒くて、焦ってしまう。
……私、知ってる。でも、思い出せない!
挑むようにアサギは両手を広げ、影を見据えた。
解らないはずなのに、知らないはずなのに、それでも“憶えている”。
もどかしい感覚、記憶の片隅、忘却の彼方、箱の奥底。
影は、揺らめいた。一瞬だったが、紫銀の短髪、トビィに似て非なる少年が姿を見せる。
「あ……」
気圧されたように息を吸い込み、大きく目を開いた。知っている、懐かしい、愛しくて仕方がない、それでいて酷く罪深い。
『思い出せない、だと? 心外だな、またオレを馬鹿にしてるのか。……まぁいい、オレ以外の男に近づかないで、約束。破るなよ』
明確に、声が聴こえた。
やはり、聞き覚えのある声だった。
あまりのことに、懐かしくて涙が零れそうになった。
低くも高くもない、愛しいとさえ感じるその声。
何度この声に名前を呼ばれただろう、いつまでも聞いていたいほどに、心は安らいだ。
そして、その声で好きだと、愛していると言って欲しかった。
姿を現したその少年の綺麗な瞳は鋭くて、それでいて幼い。
抱きつきたい衝動に駆られ、知らず涙が溢れて地面に落ちていく。
「待って、待って!」
無我夢中で声を張り上げ瞳を開くと、零れるほどの深緑が瞳に飛び込んでくる。
ここは森の中の大木の上だ。状況を思い出し、吹き出た汗をそのままに我に返る。
ハイが、いない。
「ひぁっ!?」
小さく叫んだアサギは身体を仰け反らせた、首筋に柔らかい感触と軽い痛みを感じ、悲鳴を上げる。
ハイが首筋に舌を這わせ、きつく唇で吸っている。ハイの顔が目の前にないだけで、組み敷かれている状況に変わりはなかった。
「やぁっ!」
寒気がして、身体が跳ね上がる。蒼褪めた唇で、ガタガタと震える右手に力を籠めた。ハイの胸を押し返そうと懸命に抵抗したが、微動だすらしない。乾く口内は、言葉を妨げる。全身が痺れていく、吸われる度に身体は跳ね上がり、恐怖から脳が麻痺しそうだった。粘膜が擦れる音が耳に響き、急速に全身から力が抜けていく。
世界が、廻る。
木々が押し寄せ、虚ろに見上げた空の中、ざわめく森の檻。
……助けて。
『助けて? どの口がほざく。オレの言う事を聞かないから、そうなるんだろ? 何、殺されたいの? お前は誰のモノだ、オレのモノだろうが。だったら目の前の男を殺してでも跳ね除けろ、本当に嫌なら出来る筈だ。勇者サマのお前なら可能だろうが。あぁそうか、やっぱりお前は誰とでも』
再び“あの”声が聴こえる。間違いなく先程の男だ、姿は見えないが、近くに居る気がした。殺意すら帯びているような侮蔑の色が濃く出ている声に、アサギは喉が張り裂けるほど声を張り上げる。
「ち、違います! 待って、嫌わないで!」
死に物狂いで、アサギはハイの身体を押し返した。この状況を抜け出さなければ、“あの男”に嫌われると直感した。冷酷な視線は、身に受けると刺すような熱に変わる。皮膚から心臓に到達する激痛を、二度と味わいたくない。
アサギはハイの胸板を叩き続けた、泣き叫びながら懸命に抵抗を続ける。
隣にその男が立っていて、監視されている。冷ややかな視線で見下ろし、お道化た様に落胆している。
『本気で抵抗しろ、さっさと殺せ。出来ないのなら、お前は結局』
目の前で正気を失っているように思えるハイよりも、幻覚の男に恐怖を感じる。譫言のように「嫌わないで、嫌わないで」とアサギは涙を流して懇願した。
「……あの人に、また、嫌われてしまう。嫌われたくないのに、何をしても、嫌われてしまうの。私はもう、間違えたくないのに」
取り返しのつかない絶望に陥ったような、蒼ざめた顔でアサギははらはらと涙を流し続けた。
下からの抵抗に気づいたハイは、ようやく起き上がった。そうして、崩れ落ちるように大木から地面に転がり落ちる。額を押さえ、わなわなと震えて疼くまる。
荒い呼吸を繰り返すアサギは、自分に覆い被さっていた体温と重心が消えたことに胸を撫で下ろした。嫌な汗が流れていた、身体が痙攣し、暴走するように酸素を求める。
「きらわ、ない、で」
あの人、が誰かも解らない。しかし、このままでは嫌われると直感した。それだけは、避けねばならない事だと、嘔吐しそうな程に胃が痛む。ひんやりとした首筋に指を這わせれば、冷えた粘着ある唾液が糸を引いた。虚ろな瞳で、アサギはずり落ちたハイを一瞥する。気怠い身体を起こすことも出来ず、虚無の瞳だけを向ける。
瞳は交差したものの、扇情的な光景だが今のハイにはそう映らない。顔面蒼白で、細い瞳から幾つも涙の筋を作り、嗚咽を堪え片手で顔面を覆い隠し、泣いている。