アサギとマビル
文字数 2,997文字
アサギは手にしていたシャープペンシルを机に置いた。窓から月を見上げ、大きく伸びをする。唇をキュ、と結び、開いていたノートと教科書を閉じると窓に駆け寄った。
夜風が入るように網戸にしておいたが、それを開けると迷うことなく窓から身を投げる。軽やかに地面へと降りると、振り返らず庭の一角へと急いだ。網戸は何事もなかったかのように勝手に閉まり、先程と同じようにカーテンが揺れている。
家の前の道路で、散歩中の犬が吠えた。普段大人しい犬が怯えたように吼えだしたため、飼い主が戸惑っている。
アサギが向かう先は、異世界。庭に設置した転送陣に身体を投げ込めば、願う場所へと移動出来る。
瞳を開けば、そこはディアスにある館の一室だ。仲間が集う、異世界での別荘のようなもの。静まり返っている部屋の窓から、地球にいた時と同じように身を投げた。
目の前に、大きな月が浮かび上がる。
先程地球で見た月とこの月は、
宇宙は広大だ。
地球人が発見出来ていないだけで、太陽系と似たような空間が多々存在するに違いないとアサギは考えている。知らない世界が広がっていると思うだけで、心が躍る。
キィィィ、カトン。
地面に足がつくことはなく、アサギは空中を駆け巡った。
表情を強張らせ緊張気味に顎を引くと、一瞬でも浮かれた自分に腹を立てる。
胸騒ぎがする。
今行かねばならないと、身体が勝手に動いている。誰かが先導してその手を引くように、導かれるままに惑星クレロの宙を飛んだ。
眼下に広がる街を離れ、大河を越える。緑の木々が揺れる森を抜け、巌巌とした山脈に到達すると、つい最近見たような光景が広がっていた。
軽く乱れた息を整えたアサギは、耳を劈くように聞こえてきた奇矯な遠吠えに髪を逆立たせる。
「犬。……犬の、魔物」
一匹ではなく、三匹に思える。普通の犬ではない、地に轟くようなその声の身体は巨体だろう。険しい茂みの中で、何かが動いた気がして目を凝らす。こちらを窺うように六つの光りが揺れ、消えたのを確かに捉えた。
迷うことなく、暗闇の中へ飛び込む。
そこに居た何かを探して、森の中を走り回った。奇妙な事に、森の動物たちが忽然と姿を消している。隠れているのか、怯えて逃げたのか。寝静まっている筈の鳥の姿も確認できない。
微かに血の香りがして立ち止まったアサギは、鼻を引くつかせた。気のせいではない、風に混じって漂ってくる。
「マビル」
呟いたアサギは、眩暈がして近くの大木にしなだれた。無我夢中で移動したが、体力も精神力も限界を超えていたらしい。ここまでの長距離飛行をしたのは初めてだ、その事に気づき顔を顰める。
疲弊が一気に押し寄せる。脚が生まれたての小鹿のように震え出し、立っていられない。
ひきつけを起こしたようにガクガクと身体を揺らしながら木の根元に倒れ込むと、身体中を震わせた。辛うじて瞳は開いていたが、身体がいうことをきかない。
いつしか、眠りに落ちていく。頑なに開いていたその瞼が、ゆっくりと閉じていった。
「……マビルを、助けないと」
唇を動かす。
……マビルを助けなければならない、彼女は生きなければならないのだから。こんなところで死なせるわけにはいかない。
アサギが倒れた場所からほど遠くない場所で、マビルは同じように倒れていた。
二人の右手を伸ばしていくと、丁度重なり合う。互いを求めるようにして。
どちらも、意識はない。
けれども、身体は動いた。
マビルの身体は、緑の光に包まれて静かに宙に浮く。そのまま、壊れ物でも扱うように暗い森の中を移動していった。
戸惑いながら進むその身体は、安全そうな洞穴を見つけると躊躇せずそこへ入っていった。
古代人が住処にしていた場所かもしれないし、偶然の産物かもしれない。奥に水源を確認したので、緑の光はマビルの身体を仰向けにして岩肌に降ろす。
『マビル』
傷つき、痛々しい愛しい彼女を名残惜しそうに撫でると、緑の光は洞穴からゆるりと出た。
そのまま、アサギの体内へと戻る。
「っ……ぅ」
額を押さえて、アサギが起き上がる。木々の間から見え隠れする月を見上げ、虫の鳴き声に耳を傾ける。
森に生き物が戻ってきたようだ。
不気味なほど命を感じられなかった森は、今、溢れんばかりの生命で埋め尽くされていた。木々の間を風が戯れている。
「思い出した。ここ、この間トビィお兄様と来た場所だ」
立ち上がると、身体に付着した落ち葉を払う。
記憶に間違いがないならば、付近に村がある。ここは、巨人族の子を保護した場所。
アサギは、ふらつく足取りで森の中を急いだ。飛ぶ勇気はなかった、そこまでの力量が残っていない。
木々に誘われるように進む。迷うことはない、光がなくても村まで到達出来る。
蝶にでもなったかのように、軽やかな足取りで駆け抜けた。力を入れずとも、誰かが抱き上げて運んでくれているかのように楽だった。
以前も、こうして森中を走り抜けた気がした。まるで、
見覚えのある村に足を踏み入れると、夜中だというのに途端に人々に囲まれる。
「アサギ様! おぉ、おぉ! 倒してくださったのですな!」
「ありがたやー、ありがたやー、ありがたやー!」
口々にお礼を言われるが、なんのことやらさっぱり解らない。困惑したアサギだが、急に眠気に襲われる。明日も学校がある、眠らねば授業に支障が出る。
アサギに泊まっていって欲しいと懇願する村人だが、丁重に断った。ここで眠って早朝に起きられないと大惨事だ。
「あ、あの、また来ます。その、様子を見に」
そう告げ、逃げるように村を飛び出したアサギは途方に暮れた。来た時はよかったが、帰る気力がない。
デズデモーナが近くにいないだろうかと嘆きながら、仕方なしに渾身の力で宙に浮いてみた。
すると、運が味方したのか。
「トビィお兄様!」
周辺に待ち望んだトビィと竜の気配を察知したので、どうにかそこまで飛ぶ。
よろめきながら夜空から舞い降りてきたアサギに、クレシダは怪訝に顔を顰め、デズデモーナは頬を染め、トビィは穏やかに腕を広げた。
その腕の中にすんなりと飛び込んだアサギは「太陽が顔を出したら、起こしてください」とだけ告げトビィの腕で眠りにつく。
何故ここにいるのか疑問だが、疲れているアサギを起こすのは忍びない。トビィは、村の様子が気になって調査に来ていた。しかし、彼の優先順位はアサギ。今更村へ行くほど暇ではない。
「安心しろ、望み通りに」
トビィは優しく髪を撫で微笑むと、行先を変更した。
ディアスへ戻り、館の自室へアサギを運ぶ。質素だが寝具が用意してあったので、そこへ寝かせた。
「おやすみ、アサギ。良い夢を」
額に口付け、健やかな寝息を立てているアサギに微笑む。
「主、私たちはどうしたら……」
入口に立っていた人型のクレシダとデズデモーナに「好きなように」と指示を出すと、トビィは館にある浴室で身体を洗い流した。
そのままごく普通に自室に戻り、熟睡しているアサギの隣に滑り込むと抱き寄せて瞳を閉じる。
「ん……」
身動ぎしたアサギを抱きとめ、頬に口付ける。首の下に腕を差し込み、華奢な身体を隠す様に抱いて眠った。